もっこもこ柔らかな曲線デザインが珍しい林昌寺「法林の庭」

仏教の庭

林昌寺は、真言宗御室派の寺院です。聖武天皇の勅願寺として行基により天平年間(729年 – 748年)に開創されたといわれる古寺。
天正5年(1577年)に織田信長の雑賀攻めによる兵火を受け、全山焼失。堂宇は江戸時代に再建された。

庭園レポート

境内には重森三玲が作庭した「法林の庭」があります。回遊式の庭園です。角度のある山の斜面につつじの大きな刈り込みのデザインがかなりのインパクト!刈り込みのなめらかで柔らかな輪郭に合わせ据えられた青石も重森三玲の石使いの中ではわりと平行的で穏やかな印象を受けました。正面から眺めたときは気づきませんでしたが、回遊しはじめてみると刈込の間に重森三玲らしいぐいっとした曲線の池泉があります。隠し池、いいですね。おお!と楽しくなりました。

周囲を囲っている生垣はぴしっと直線を描いているのもよりつつじの刈り込みの曲線の柔らかさが強調されていてよいですよね。ツツジが満開になったら一面がピンク色に染まるそうなのでぜひ今度は開花時期に行ってみたいです。まるで桃源郷のような趣になりそうです。


◆拝観
無休

◆拝観料
無料

◆見学所要時間
20分ほど

◆アクセス
JR阪和線「和泉砂川駅」から徒歩で18分
大阪府泉南市信達岡中395


歴史コラム

林昌寺は織田信長の雑賀攻めの際に焼失し、江戸時代に再建されました。このサイトでもいくつか雑賀衆について書いています。
紀州でなぜ傭兵集団(雑賀衆・根来衆)が発展した?
雑賀衆の活躍と滅亡

何度かは織田信長に協力し、鉄砲部隊として助力した雑賀衆。金銭で雇われる傭兵集団なのでしがらみやメリット、戦況によって移ろいます。昨日の見方は今日の敵なんてことも。

雑賀衆の起源はどんな感じだったんでしょう?
紀伊は出雲から来た古代の人がひらいた国で、古来より鉄器文明の栄えた土地でした。戦国時代にはすでに大集落があり、社会的な発達は京や堺に匹敵するほどだったとか。
さらに根来衆の僧が紀州へ持ち込み生産を始めた鉄砲(武器)があり、それを使うプロフェッショナルな傭兵集団がおり、海に面した土地のため熊野水軍なども古くから活躍していました。文明が発達し人口も多く産業も盛んで軍事力にも優れた国。ただ、統一されていない豪族の連盟国家でした。そして結束力はあまりなかったようです。

雑賀衆きっての人気者で優れた統率者であった雑賀孫一の本名は鈴木重秀すずきしげひでです(孫一という名は雑賀衆の棟梁の通称だとする説もあり)。熊野別当(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の統括にあたった役職)として権勢をふるっていた穂積鈴木氏。その分家として雑賀の地へ移住してきたのが雑賀鈴木氏。

本家の穂積鈴木家が神職を務めた名家ということもあり、雑賀鈴木家は近隣の豪族たちの中心的な存在となります。とはいえ、雑賀衆は豪族の寄り合いの傭兵集団なので実際に雑賀衆すべてを仕切っていたとは言い切れないそうです。ただ本願寺顕如が別格に扱ったり、織田信長が一目置く軍事的才能は事実だったようです。雑賀孫一を題材にした小説などもあるのでぜひその闊達で快活な魅力に触れてください。

ikeda

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日本庭園(主に古庭園)と歴史が好きな管理人が日本庭園の紹介と歴史コラムをと書いています。京都芸術大学大学院環境デザイン領域日本庭園分野を修了。書いた論文を当サイト内でも公開しています。

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