江戸時代初頭に活躍した作庭家・小堀遠州

日本庭園の歴史

江戸時代初頭に活躍した茶人で建築家で作庭家


小堀政一は慶長十三年(一六〇八)に従五位遠江守を拝受したので俗に小堀遠州と呼ばれています。茶道・小堀遠州流の始祖としても知られ、江戸時代初頭に作事奉行を務めた建築家であり作庭家でもあります。現代の今でも小堀遠州の建築物や作庭した庭はお手本とされています。小堀遠州がなぜ名だたる建築家・作庭家となったのかを紐解いていきます。

小堀遠州の幼少期

天正七年(1597年)近江国坂田郡小堀村で生まれ。父・小堀正次は浅井家に仕えていましたが浅井家が織田信長によって滅ぼされた後、豊臣秀長に仕えます。豊臣秀長はたたき上げで血縁者の少ない豊臣秀吉の実弟であり、秀吉の右腕として豊臣家中をまとめあげた豊臣家内の重要人物。そんな秀長の元へは天下人の秀吉をはじめ中枢の重鎮が訪問することもありました。遠州が十歳の時に秀長の見舞いと称し、秀吉が訪問してきた時に随行していた千利休と対面したと「甫公伝書」に記載があります。
豊臣家内の重要人物に小姓として仕えさせるにあたり、また小堀家の跡継ぎとして父・正次は遠州に幼少の頃から文化的な教育をしていました。父・正次自身も茶の湯をたしなみ文化活動に熱心な人物でした。遠州が十五歳の頃には正次は奈良の商人であり茶人の松屋久好を招いての茶会に遠州を参加させています。また、この頃に大徳寺の春屋宗園に参禅をはじめさせていることからもとても教育熱心であったことがうかがえます。

 

父・正次と義父・藤堂高虎からの影響

遠州が建築・作庭で優れた才能を発揮したのには正次が作事に長けており伏見城の作事奉行も務めた人物であったことも大きいです。さらには正次と同郷で正次の上役でもあった藤堂高虎の養女を慶長二年(1597年)に娶りました。藤堂高虎は土木や普請事業に秀でた人物であり、父・正次とともに舅として遠州に影響を与えたものと推察できます。
藤堂高虎
父・正次の死去後、遠州は家督を継いだ遠州は舅・藤堂高虎の推挙を得て慶長十一年(1606年)に後陽成院御所の作事奉行に命ぜられます。正次の時代から小堀家には腕のよい大工棟梁や左官などの職方がそろっていたのでしょう。後陽成院御所の作事奉行を命じられた二年後には、徳川幕府の最高権力者である徳川家康の居城・駿府城の作事奉行を命ぜられ、その作事の功績により従五位下遠江守に叙任されます。

 

作事奉行としての数々の功績

この頃から遠州は作事に次ぐ作事で忙殺されていたのがわかります。遠州が作事奉行を任されたものを以下に列挙しますと…。

慶長一八年(1613年) 後水尾天皇の御所の作事奉行
元和三年(1617年) 伏見城本丸書院作事奉行
元和四年(1619年) 大阪城外曲輪・門・惣廻り・櫓修繕の作事奉行
元和八年(1623年) 大阪城御殿作事奉行
寛永三年(1626年) 大阪城天守・本丸御殿作事奉行、この間に徳川秀忠による後水尾天皇の二条城行幸が計画。
遠州は二条城の広間・二の丸庭園・行幸御殿の統括を担う。
寛永四年(1627年) 南禅寺金地院と内部の東照宮の造営を崇伝から依頼される。同年、江戸城山里丸を造作。
後水尾天が譲位したため、仙洞御所・女御院庭園の造営を命ぜられる。
寛永九年(1632年) 水口城・伊庭御茶屋の造営、同年仙洞御所の庭園泉石構造奉行。
寛永十三年(1636年) 品川御殿・御茶屋の造営。
寛永十七年(1640年) 明正天皇譲位に備えて新院御所と禁中の造営の奉行になる。

実に大変な数の作事に関わっていることがわかります。遠州が高度な技術と知識、作事現場を切り回す統率力があった優秀な人材であったのことは間違いないでしょう。しかし、この度重なる作事奉行の役は遠州の個人的能力ゆえに命ぜられたのではなく、遠州が務めていた「郡代」という職務として公儀の作事を命ぜられていたといえると述べている説もあります(深谷信子/小堀遠州の研究 : 『小堀遠州茶会記集成』を中心に/ 2007年)。

元和から寛永期まで、遠州が命ぜられた作事は江戸と畿内で繰り返し行われています。
後水尾天皇と幕府の紫衣事件(紫衣事件についてはこちらのコラムで)からもわかるように、この時期の徳川幕府と朝廷は確執と和解を繰り返し、譲位や即位も多かったことから御所や女御の御所など禁裏関係の作事も多かったのです。また幕府の権威のため二条城、名古屋城、江戸城の作事も徳川幕府の重要事項でした。
後水尾上皇
先述の論文の中で深谷氏は「公儀の作事だけで多忙な遠州であるから、全国にある茶室や庭園のほとんどは遠州が携わっていないのではないか。「伝・遠州作」という茶室や庭園はいかに当時の「遠州好み」がもてはやされたかの証左であろう」と述べています。
もとは豊臣家に仕えており徳川家にとっては外様大名であった小堀遠州が徳川家の中で躍進し、伏見奉行という畿内の拠点の奉行を任ぜられたのは偏に遠州自身が相当な信頼に値する人物であったでしょう。作事だけではなく、寛永九年(1632年)には徳川家光から盃と清拙の墨蹟を賜って将軍茶道師範になっています。

小堀遠州と茶の湯

将軍茶道師範も務め、茶の湯でも大成した小堀遠州。今なお「小堀遠州流」茶道は受け継がれ続けています。小堀遠州は少年時代から茶の湯の世界へ足を踏み入れていました。師の古田織部から本格的に茶を習い始めたのはいつ頃か正確な記録は残っていませんが、遠州が十八歳の時に伏見六地蔵の自邸露地の洞水門に工夫を凝らし古田織部を驚かせたという記録が「桜山一有筆記」にあります。早くとも十代の後半頃には古田織部に師事していたものと思われます。

小堀遠州と師・古田織部


古田織部は千利休の弟子で、織田信長から豊臣秀吉に仕えた武将であったが晩年には徳川秀忠の茶道指南を務めた、その当時最高峰の茶人のうちの一人。古田織部の弟子となった小堀遠州は古田織部の茶会に参加し、また自邸の茶会に招きともに同道して他の茶人の茶会に参加するなどかなり深い交流をもっていたことが「慶長御尋書」に記されています。
しかし豊臣秀吉亡きあと天下取りに向けて徳川家康が具体的な行動に移ると両者の交流は希薄になってしまいます。豊臣恩顧の大名であった古田織部は豊臣家存続のために様々な和平工作を画策。豊臣恩顧の大名を一掃したい徳川家康にとって豊臣家との和平交渉を訴える古田織部は邪魔でした。そのうえ、諸大名への影響力を考えても看過できない人物でした。

方広寺の鐘銘事件がおきます(豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘に「国家安康」「君臣豊楽」という銘文が彫られたことに対し、家康の文字を分断し豊臣家の繁栄を願っているという言いがかりに近いもの。ちなみにこの鐘の銘文は方広寺で見ることができます)。起文者である文英清韓禅師を伴い、方広寺の作事奉行であった片桐且元は家康のもとへ赴き弁明しますが家康はそれを突っぱね大坂冬の陣への布石となります。
この時、蟄居を言い渡された文英清韓禅師を茶会に招き慰労したことで古田織部は家康の逆鱗に触れます。その後、大坂冬の陣が勃発へ。徳川家と豊臣家の間にいったん、和議が成立しますがなんやかんやと条件をつけられて大阪城は外堀を埋められ裸城にされます。裸同然の大阪城を再度、攻撃開始し夏の陣が勃発。大坂夏の陣にて、古田織部は豊臣家方への内通を疑われ切腹を命じられました古田織部邸および茶道具を接収したのは、小堀遠州の舅である藤堂高虎。藤堂高虎も外様大名でありながら要衝の城を任されるほど徳川家康から絶大な信頼を得た人物。その高虎の娘婿である小堀遠州にしてみれば、師とはいえ徳川家康と軋轢を生んだ古田織部とは距離を置かざるを得ない状況だったのでしょう。

官僚として、茶人としての小堀遠州

千利休もその大きすぎる影響力、権力者である豊臣秀吉への度重なる反発でついに切腹を言い渡されましたが古田織部も同じ道を歩んだことになります。現在でこそ、千利休の功績や作り上げた崇高な美意識、古田織部の功績や作り上げた独自の世界観は世に広く認識され評価を得ています。しかし当時は切腹を言い渡された咎人として存在をタブー視され功績や創作したものが表舞台から抹殺されたであろうことは想像に難くありません。遠州は師の切腹によって文化が失われる理不尽を目の当たりにしたであろうし、世の趨勢とはいえとてつもないやり切れなさに苛まれたでしょう。作事奉行として骨身を砕いて、公儀の仕事に身を尽くし続けたのは師・織部の死にざまの影響があると推察できます。処世の術に長けていたという単純なものだけではないはず。

骨身を惜しまず公儀に尽力し続けながら自らの独自性でわびさびの世界に豊かさや美しさを加えた「きれいさび」と呼ばれる調和の美を表現しました。小堀遠州とは官僚としての顔と創作者としての顔が、素晴らしくバランスのとれた人物だったのではないでしょうか。

明るく広い、新時代の茶室を考案。こちらは太閤山荘にて再現されている小堀遠州作の十三窓の茶室。

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日本庭園(特に古庭園)と歴史が好き。歴史のアレコレを調べるのと庭巡りがライフワークの管理人が発信するブログです。

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