比叡山を借景とした滋味豊かな圓通寺

円通寺は、臨済宗の妙心寺派のお寺です。かつてこの地には、後水尾天皇の幡枝離宮があったそうです。円通寺の庭園は苔を主体に刈込みと石を配し、大小40余りの庭石は上皇となった後水尾天皇が自ら配したと言われています。比叡山を借景にし、上皇は最も比叡山の眺望に優れた地を求めて、この幡枝に山荘を設けたという説もあります。枯山水庭園国の名勝に指定されています。

◆庭園レポート
パッと目に飛び込んできたのはそびえる比叡山。言わずと知れた霊山。キッチリ刈り込まれた生け垣をはじめ、人の手により丁寧に作り込まれた庭園と周囲の自然なままの樹木、そして比叡山。自然の美しさと造られた美しさとが混じり合ったとても美しい庭園。
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座る位置によって様々に見える多面体的な要素もあってちょこまかと移動して座る位置を変えて、たくさんの風景を感じることができました。周囲を木々に囲われているので切り取られた空間の中に穏やかさと木々のさざめき、額をなでる風が愛おしくなるほどに気持ちいい空間で、写真で見た時は「色彩に乏しい、表現が華美ではない枯山水で地味なのかな?」と思ったけれど写真には写りようのない様々なモノの質感が、ぎゅうっと濃縮されたような庭園でした
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私は普段友人らに「ガサツな人」認定されており、繊細さとは真逆の性格の持ち主なのですが、それでも圓通寺にいる時は様々な音や光や微少点に目が行くほど細やかな気持ちになって、それが楽しいというか嬉しいというか「丁寧さ」を思い出したような、そんな気がしました。「最近、様々なことが雑になってるな」と思い当たるフシがある人にぜひ行って頂きたいです。どこの庭園でもそうなのですが「丁寧さを思いだす」ことと「心の機微に気づく」ことは庭園鑑賞の醍醐味だと本当に思います。


◆拝観
無休(12月の特別法要日※不定で2日間は休み)
10:00~16:30

◆拝観料
500円

◆所要時間
30分ほど

◆アクセス
京都市左京区岩倉幡枝町389 地図
京都駅から京都バス45系統「円通寺道」下車 徒歩約10分


◆歴史のこばなし
後水尾天皇は「寛永文化」の中心人物でした。寛永文化(かんえいぶんか)とは16世紀の桃山文化と17世紀後半の元禄文化に挟まれた17世紀前半(江戸時代初期)の文化。寛永文化の中心は京都であったとされ、中世以来の伝統を引き継ぐ町衆勢力と後水尾天皇を中心とする朝廷勢力が、封建制を強化する江戸幕府に対抗する形で古典文芸・文化を盛り上げようとしたものです

仙洞御所に移り住んだ後水尾天皇は茶の湯、生花、文学、儒学、書、絵画、陶芸など様々な文化人が集う文化サロンを形成しました。後水尾天皇自身は特に和歌を得意とし、歌集『鴎巣集』には2000首もの和歌が収録されているそうです。

名園として名高い、修学院離宮も後水尾天皇が造営したものです。想像するだけですごい面々が集まっていそうな文化サロンをまとめていたこともすごいのですが、徳川幕府との闘争の日々もなかなかにすごいです。

関ヶ原以後、徳川家は豊臣家の殲滅と同時進行で朝廷にも圧力をかけていました。家康は朝廷の権威を使いやすくするために天皇家と外戚関係を結ぼうと、秀忠の娘を後水尾天皇の元へ入内させます。
しかし後水尾天皇には密かに養っていた皇女がおり、そのことを幕府側は「徳川家とのご婚儀を迎えるにあたり不謹慎である」と非難し、宮中側近や官僚を罷免します。朝廷側は言いなりになるしかなく、徳川秀忠の娘の入内はスムーズに運びました。入内後も「娘の警護のため」と徳川家の手の者を宮中に入れるなど過剰な介入や専横を繰り返します。そして幕府が朝廷に対してあれやこれやと注文をつけた「公家諸法度」を制定します。

家康は朝廷に対しては穏健派で権威を後ろ盾に幕府政治の安定を試みようとしたフシがありますが、二代将軍秀忠に代替わりしてからは朝廷への圧力は苛烈になっていきます。御料を小大名と同じ1万石しか与えず天皇家を貧乏にし、京都の政治勢力の勢いをなくし徳川家の脅威とならないようにしました。

貧乏暮しを強いられても耐えていた後水尾天皇の堪忍袋の緒が切れる事件が勃発。金地院崇伝(徳川家と昵懇の仲の僧侶)が京都に上洛した際、公家諸法度に抵触する事案があることに気付き、京都所司代・板倉重宗と協議しました。
朝廷では各寺院へ「この僧侶は紫衣を身に着けてもよい」というお許し(認定のようなもの)を出す変わりに収入を得ていました。しかし幕府が朝廷に押し付けた「公家諸法度」では「幕府に内緒で勝手にお許しを出すな」というルールになっていたのですが、朝廷はそれを無視して収入を得るために「紫衣勅令」を出していました。
朝廷側の言い分としては、数百年も朝廷が行っていたことをポッと出の幕府が勝手に押し付けてきたルールのために破却すると思うのか…ってことですよね。しかし後水尾天皇が与えた「紫衣勅令」は無効にされ(この時、紫衣と上位号を無効にされたのは大徳寺の宗伯、沢庵、妙心寺の桃源たち)ました。

自分の出した勅令を無効化された後水尾天皇は大激怒し、怒った勢いで「やってられない」とばかりに退位します。その時の後継は二代将軍秀忠の孫にあたる高仁親王でした。二代将軍秀忠にすれば「自分の孫が天皇に!よっしゃ!」だったのですが、高仁親王は夭折してしまいます。
その後は後水尾天皇と秀忠の娘の間には皇女しかいなかったので幕府側は一旦、譲位を改めようとするのですが、後水尾天皇の退位の気持ちは変わらず皇女のうちの一人(明正天皇)を後継に指名し、自分は退位してしまいます。

勝手に退位して勝手に後継を決めたわけですから、幕府側は激怒。秀忠は後水尾天皇上皇を島流しに処そうとしますが、三代将軍家光がなんとか諌め、事なきを得ました。そのまま後継者問題はうやむやになり、結局は上皇になった後水尾上皇が院政を敷き、明正天皇(幕府側)が実権を持つことはありませんでした。後水尾上皇は明正天皇が退いてからも法皇となって院政をしき、実質朝廷内で最高の実力を保ち続けます。

そういうしているうちに二代将軍秀忠が死に、三代将軍家光は朝廷とは争いを避け良好な関係を築いていきました。

徳川家からの天皇家の乗っ取りを防いだとも言える後水尾天皇は85歳で崩御しました。もし後水尾天皇が徳川家との争いに根負けして、徳川家の男子を皇子として迎え入れてしまっていたら、幕末の尊皇攘夷もなく日本の近代化ももっと遅れていたかもしれませんね。