3mの高低差!巨石の枯山水に圧倒される粉河寺庭園

仏教の庭

粉河寺の創建は大変古く、奈良時代末に紀伊国那賀郡に住む 猟師・大伴孔子古が夜ごと猪や 鹿を狙っていたがある晩、光輝く地を発見し、発心してその場所に柴の庵を建てた、というのが創建のはじまりだそう。宗派は粉河観音宗(こかわかんのんしゅう)。多くの人達の信仰をうけて繁栄し、鎌倉時代には広大な境内と寺領四万余石を有していましたが、天正十三年(1585)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、伽藍と多くの寺宝を焼失。その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、江戸時代に現存の諸堂が完成しました。

◆庭園レポート
とにかく珍しい作りの粉河寺庭園。本堂の前庭とその下の広場との高低差を処理する土留めとしての役割も。広場から本堂を仰ぎ見る前景として築かれた石組みがとにかくダイナミックで猛々しく、インパクト大!

この豪快な枯滝石組!滝上部に石橋を渡す玉澗流(ぎょくかんりゅう)の手法です。宋の有名な水画家・玉澗の山水画がモチーフになっています。背後に大きな築山を造り、その間から滝を落とし滝の上に石橋を架けるのが特徴です。

粉河寺庭園の作庭者は一説には上田宗箇といわれています。この豪快な迫力は上田宗箇っぽいです。雑賀崎の青石、琴浦の紫石、など和歌山県の名石がたくさん使われています。間近でみると迫力が本当にすごいし、石がかっこいい。

天を突きそうな勢いの立石。鋭角さが際立ち張り詰めた空気感が醸し出されています。

右側のエリアは左側ほどの荒々しさはありませんがこちらも豪快。ところどころ石が水平方向にも組まれているので少し柔らかさが出ているようです。

本堂の前庭。こちらも石をたくさん使用した枯山水。

とにかく巨石がたくさん拝めてダイナミックな迫力は一見の価値ありです!


◆拝観
年中無休

◆拝観料
無料

◆見学所要時間
15分程

◆アクセス
和歌山県紀の川市粉河2787 ⇒地図
JR和歌山線粉河駅下車 門前町徒歩15分


◆歴史のこばなし
前段の粉河寺のご紹介でもでてきましが、秀吉の紀州攻めによって粉河寺も戦火に巻き込まれました。その辺りについてはこちらのコラムにも記載しておりますのでお読みください。

紀州は他の地と異なる点があります。寺社が抱える傭兵集団がとても強かったことです。平安時代に熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の連合体)が成立したことで、天皇による熊野御幸がおこなわれるようになると、熊野古道が整備され熊野詣(くまのもうで)が流行。その他にも紀三井寺、空海の高野山金剛峯寺、道成寺、根来寺など大寺や大社が紀州の地に建てられました。

熊野別当家を総帥とする熊野水軍、根来寺の傭兵集団・根来衆、根来衆の鉄砲の生産地であった雑賀荘の土豪が中心になった雑賀衆などが割拠して、中央政権に支配されない状況が長く続きました。寺社の勢力と影響力がとても強く、どの時代の権力者も紀州を屈服させることはできませんでした(あの織田信長でさえ!)

しかし信長の死後、天下統一を果たした豊臣秀吉が紀州征伐をし、雑賀衆は衰退し根来寺も焼き討ちにあい降伏します。こうして中央政権に屈することなく独特のバランスで成り立っていた紀州も中央政権の支配下に置かれることになりました。

日本の中世の権力を朝廷、武家政権とともに三分した寺社勢力。現代では宗教と兵士のイメージがつながらないため、寺社に兵力があったことを不思議に思うかもしれません。平安時代頃から奈良の興福寺や比叡山延暦寺では、自衛のためとお上(朝廷や時の権力者)への強訴のために兵力を強化しました。なぜ寺が自衛のために?と疑問に思われるかもしれません。昔は大きな寺社を中心に経済や学問、工芸品などが発展して一大都市を形成をしていたので、おいそれと侵略されないように自衛が必要でした。興福寺や比叡山延暦寺だけでなく、前出の根来寺や浄土宗の本願寺なども兵力があったことで有名です。特に本願寺は一般門徒を兵力として扱い、一向一揆をあちこちで勃発させ織田信長と10年に及び闘争を続けました(石山合戦)。

そんな他の地域にはない特色があったんことを思いながら和歌山の名所を見ると面白いですよ。

ikeda

ikeda

日本庭園(特に古庭園)と歴史が好き。歴史のアレコレを調べるのと庭巡りがライフワークの管理人が発信するブログです。

関連記事

TOP