360度鑑賞できる面白さと目を見張るダイナミックさ。岸和田城庭園

岸和田城がいつ誰によって築城されたものなのかは定かではありません。
戦国時代末期、には泉州地域の豪族松浦氏の居城になっていました。その後、羽柴秀吉が家臣である中村一氏を岸和田城主にし、根来寺や雑賀衆の抑えの城としました。

◆庭園レポート
岸和田城庭園は重森三玲が昭和28年に設計・作庭しました。

「大将」の石組を中心に8つの石組が配置されていて、これは三国志・諸葛孔明の「八陣法」をイメージして設計されているそうです。

地上からは360度鑑賞でき、天守閣からは真俯瞰で鑑賞できることができます。とにかくハチャメチャにかっこいい石庭で、観る角度によって印象も表情もコロコロと変わるので楽しくて仕方ないです

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天守に登り上空から真俯瞰で観ると遺跡のような不思議な味わいもあり、
中二階から観ると立体的なダイナミックさが味わえるので本当にどの高さどの角度から観ても素晴らしい石庭で、その設計の奥深さに感嘆しきりでした。
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◆入場
毎週月曜日と年末年始は休み 10:00~17:00

◆入場料
大人300円

◆所要時間
30分ほど

◆アクセス
岸和田市岸城町9番1号 地図
南海電気鉄道・岸和田駅から徒歩15分
南海電気鉄道・蛸地蔵駅から徒歩10分


◆歴史のこばなし
秀吉が根来寺や雑賀衆の抑えのために岸和田城を利用したとのことですが、そもそも根来寺・雑賀衆ってたまに耳にするけどなんなんだ?という事で簡単な説明と長い説明を用意しました。

▼簡単な説明
・根来寺は和歌山の真言宗のお寺。いち早く鉄砲を取り入れた僧兵軍団“根来衆”を擁していた
・雑賀衆は同じく和歌山の雑賀荘の豪族の軍。雑賀荘は鉄砲の生産地でもあり、こちらも鉄砲を取り入れていた
・根来衆も雑賀衆も要請を受ければ各地の戦に参加する鉄砲のエキスパート
・根来衆と雑賀衆は別の団体ではあるが本拠地も近く協力体制になることがしばしばあった
・根来衆も雑賀衆も「反・秀吉」を貫いていたが最終的には秀吉によって滅ぼされる

 

▼長~い説明
根来寺は和歌山にある真言宗のお寺で、寺を中心として都市を形成し鉄砲伝来の時は根来寺の僧が鉄砲を一挺持ち帰り製造しはじめ、僧衆による鉄砲隊もつくられました。
最盛期には寺領72万石を数え“根来衆”とよばれる僧兵1万余の一大軍事集団を擁していました。

織田信長とは石山合戦に協力するなど友好関係を築きましたが、信長没後、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦い(小牧・長久手の戦い)において徳川方に通じ留守の岸和田城を襲ったほか南摂津への侵攻を図ったことで秀吉の雑賀攻めを招くこととなりました。
生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊(雑賀衆)と共に秀吉方に抵抗するが各地で敗れ、1585年に秀吉軍は根来寺に到達。大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちました。

雑賀衆は根来衆の鉄砲の生産地であった雑賀荘の土豪が中心になった傭兵軍。鉄砲がもたらされ、根来衆に続いて雑賀衆も鉄砲隊を形成。

織田信長と三好三人衆の間で野田城・福島城の戦いが起こると、鈴木孫一(雑賀孫市)らを指導者とする雑賀衆は傭兵部隊として三好三人衆軍につきます。

一方、足利義昭の要請に応じた畠山昭高(泉州地方の守護大名)が雑賀衆・根来衆らを援軍として送り出し、織田信長軍についたそう。大規模な銃撃戦、攻城戦が繰り広げられました。

『戦国鉄砲 傭兵隊』によると雑賀衆同士が戦った可能性も示唆しています。つまり傭兵軍の中でも班があり、それぞれ班の雇い主が違う場合があったということです。その辺は伊賀・甲賀の忍びのルールに似ていますよね

しかし石山本願寺(浄土真宗の本山)がこの戦いに参戦すると雑賀衆は一致して石山本願寺につき、織田信長軍と戦ったそうです。これは雑賀衆のほとんどの人がかなり熱心な浄土真宗の門徒だったことが理由として挙げられます。これによりおよそ10年に渡る織田信長vs石山本願寺の戦いが始まります。

信長は本願寺を倒すために、まず雑賀衆を抑えることを考え、中郷・南郷・宮郷の雑賀衆及び根来衆をあらかじめ味方につけた上で、1577年に信長自身率いる大軍をもって和泉国から紀伊に侵攻し、雑賀荘・十ヶ郷の雑賀衆と交戦しました(第一次紀州征伐)。

織田軍は苦戦しつつも、最終的には雑賀荘・十ヶ郷の雑賀衆を率いる鈴木孫一・土橋守重らに誓紙を提出させ、服属を誓わせました。
しかし、この戦いで織田軍は大きな損害を出し服属させたはずの雑賀衆もすぐに勝手に活動を再開して本願寺に荷担しました。あの信長をもってしても雑賀衆を屈服させることは難しかったようです。

ともあれ10年続いた石山戦争は1580年ついに朝廷の斡旋を受けて本願寺側が降服します。1580年に門主・顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森に顕如を迎え入れます。

しかしこれ以降、織田信長に従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立し、雑賀衆の内部は分裂することとなります。1582年には織田信長派の鈴木孫一が反対派の土橋氏を倒しますが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると、孫一は織田信張のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握ります。

以後は、もっぱら中央集権化を進めて地方豪族の支配を解体しようとする羽柴秀吉の動きに雑賀衆は一貫して反発し続け、根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かしたりしました。

1585年徳川家康と和解し、小牧・長久手の戦いから引き上げた秀吉が紀伊に攻め入ってくると(千石堀城の戦い、第二次紀州征伐)雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗しますがついに壊滅してしまいます。

根来衆や雑賀衆の他にも比叡山の僧兵軍団など、武将や大名家以外にも戦いのエキスパートとされる人々がいて、戦乱の最中を生き残りをかけてそれぞれの役割で戦っていたかと思うと面白いですよね。

※なぜ雑賀衆の説明がこんなに長いかというと個人的に石山合戦が好きだからです…。