仙洞御所は江戸時代初期に、後水尾天皇が上皇となられた際に造営されました。御殿は1854年に焼失したのを最後に再建されませんでしたが、庭園・茶室などが残っています。
後水尾上皇のために徳川幕府が主体となって造営したものです。修学院離宮は後水尾上皇自らが指揮を執りましたが、仙洞御所は幕府が音頭を取ったようです。庭園は徳川幕府の茶道指南役で作事奉行でもあった小堀遠州が手掛けたそうですが、のちに後水尾上皇の意向によって大改修が行われたそうです。気に入らなかったんですかね…??
◆庭園レポート
仙洞御所は自由に散策できるわけではなく、時間ごとに組まれたツアーに参加する形式です。訪れた時期が紅葉シーズンだったので広い北池を彩る紅葉が見事でした!仙洞御所は広大な二つの池を結ぶように構成されています。360度、自然の景観を借景としているので見晴らしも素晴らしいです。
北池をぐるりと回遊して南池へと進みます。紅葉の隙間から南池の葭島を望む。あちら側には州浜。三つ巴…たまんないですね!
仙洞御所といえば圧巻なのは州浜。州浜とは、池の水際を美しくみせる手法のこと。州浜の手法は奈良時代からみられ、古くから用いられています。仙洞御所の州浜はスケールが大きな州浜として有名です。なんと10万個以上の石が使用されています!ほぼ同じサイズの石を敷きつめ、なだらかさを出しています。
水と岸との境界を州浜によってあいまいにすることで水際の線がやわらかになり州浜近くの水面が清らかに見えます。先人たちの「水を美しく見せたい」という造景であり、曲線で構成されることの多い日本らしい技術といえます。
南池の端に位置する醒花亭はこけら葺きの茶邸。数寄屋造りで、露地も美しかったです。キリシタン灯籠が印象的。
南池の州浜から見た葭島と中島。二枚目は八つ橋。八つ橋は藤棚で覆われていて、藤の季節はみごたえありそうです。とにかく池の魅力と借景が素晴らしい仙洞御所でした。
◆見学
要予約 詳しくはこちら
◆見学料
無料
◆所要時間
1時間ほど
◆アクセス
京都府京都市上京区京都御苑2 ⇒地図
地下鉄烏丸線 丸太町駅から 徒歩15分
市バス 府立医大病院前から 徒歩10分
◆歴史のこばなし
このサイトでは何度も登場している寛永文化サロンを率いた後水尾天皇ですが、こちらのコラムではわかりやすく後水尾天皇の年表をまとめてみました。 ⇒後水尾天皇に関する過去のコラムはこちら
1596年 後陽成天皇の第三皇子として生まれる。
1600年 4歳。天下分け目の関ヶ原合戦。
1611年 15歳。譲位され即位の礼を行う。
第三皇子であった後水尾天皇が即位した理由は、病気がちだった長兄は父・後陽成天皇の意向によって出家。第二皇子も幼い時に出家しており、後陽成天皇は実弟であった智仁親王に皇位を譲るつもりが、徳川幕府の反対にあう。徳川幕府が擁立した、第三皇子であった後水尾天皇が即位することに。このこともあって父・後陽成天皇とは不仲であったそう…。
1614年 18歳。徳川将軍である秀忠の娘・和子を入内(後水尾天皇の妻にすること)が持ち掛けられ決定。
1615年 19歳。徳川幕府による「禁中並びに公家諸法度」が制定。宮や公家が幕府の管理下に置かれるようなことに。
1616年 20歳。和歌をはじめとする古典文学の研究を進め、後水尾天皇を中心に古典復興の機運が高まる。
1616年 20歳。徳川家康死去、父である後陽成院の崩御。和子の入内は延期に。
1619年 23歳。後水尾天皇には溺愛していた女官がおり、その間に子どもを設けていたことがばれる。激怒した徳川秀忠自らが弾劾し、その女官の家族や女官自身が追放される。このことに憤慨した後水尾天皇は天皇を辞めようとするが、藤堂高虎に脅される。
1620年 24歳。和子が入内。徳川秀忠はしたり顔。
1623年 27歳。和子との間に第一子の皇子(高仁親王)が生まれる。
1624年 28歳。和子との間に第二子の皇女(興子内親王)が生まれる。
1627年 31歳。有名な紫衣事件が勃発。⇒詳細はこちら
1629年 33歳。紫衣事件やその他の幕府の不敬に耐えかねてついに事前通達もしないまま興子内親王に譲位し、天皇から上皇へとなる。(皇子であった高仁親王が夭折していたため)
上皇となった後は院政を敷き、天皇を支えていた後水尾上皇。上皇になった後も、幕府とは対立関係が続いていましたが、三代・徳川家光は強硬派の秀忠にくらべて柔和な態度だったこと、入内してきた秀忠の娘・和子(東福門院)が夫である後水尾上皇を擁護していたため、最終的には幕府も協力関係を築くようになります。ごり押しで入内してきた東福門院和子が結果的にキーになるとは…! 後水尾上皇は85歳で崩御します。ちなみに、昭和天皇が87歳で崩御するまで歴代最長寿の天皇としても有名でした。
寛永文化の発展の裏には、幕府の莫大な資金提供があったことも事実です。寛永文化についてはいつかの機会に詳しく書きたいですが、下克上の時代に自由で躍動的な文化が生まれた「安土桃山文化」とは対比的な文化です。幕藩体制になり政治的圧力により文化を統制、古典の復興など落ち着きを持った伝統的文化が開始した時期であるという感じです。そして江戸の文化は庶民が花開く、元禄文化や化政文化へと続いていきます。