泉涌寺は皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として知られています。1218年に、俊芿が宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、1226に主要伽藍が完成。
俊芿は肥後国(熊本県)に生まれ、若くして仏門に入り大志をもって求法のため中国の宋に渡り12年後に帰国。帰国後は泉涌寺において戒律の復興を計り、律を基本に、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場としました。
◆庭園レポート
御座所庭園は明治時代の作庭。東山を借景とした鑑賞式の池泉庭園となっています。築山にもみじが配され、新緑の時期だったので青々としていました。山中にある寺院なので葉擦れの音と池の水音が微かに響く、静謐な雰囲気。高木と低木の配置バランスがとても効果的で庭園自体はそんなに大きくはないのですが、立体感を感じさせる庭園です。
石組みは少なめで緑豊かな穏やかで柔らかい印象のお庭です。池のそばにある雪見灯籠は仙洞御所から移されたものだそうです。
ちなみに、泉涌寺に入ってすぐのところにある小さなお庭も石組がゴージャスで素敵でした!
◆拝観
3月〜11月9:00~16:30 (閉門17:00) / 12月〜2月9:00~16:00 (閉門16:30)
◆拝観料
500円
◆所要時間
20分ほど
◆アクセス
京都駅(八条口)から、タクシーで約10分
京都駅(烏丸口)から、市バス(208)にて泉涌寺道下車、徒歩15分
東福寺駅(奈良線)から徒歩20分
◆歴史コラム
冒頭に「泉涌寺において戒律の復興を計り、律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場としました。」と記載しました。
・律とは
仏教の戒律。僧が守るべき規則のことです。
・律宗とは
飛鳥時代に日本に仏教が伝来して東大寺の建立など華やかな仏教社会が成立していましたが、実は日本には中国とは違い正式な僧(受戒)になるための制度がきちんと制定されていませんでした。このままではいけないと聖武天皇の要請により鑑真が中国より来日し東大寺に戒壇が完成し、正式な受戒が行われるようになりました。⇒大変すぎる鑑真の来日のあれこれについてはこちらに記載しています。
そんな鑑真の開いた宗派が律を基本とした「律宗」です。律宗を含めて奈良時代には南都六宗と呼ばれる国家が公認していた宗団がありました。
三論宗、法相宗、華厳宗、律宗、成実宗、倶舎宗の6つです。いわゆるイメージする宗教の「宗派」とは違い、お互いに教義を学びあう学派のような意味合いが強く東大寺を中心にして、勉強しあっていました。
しかし南都六宗による奈良仏教は国家主導の仏教で、権力と癒着していくうちに堕落の一途をたどってしまいます。有名な話では、道鏡という僧が女帝・孝謙天皇の寵愛(つまり愛人)を受けたのをいいことに、政策に口を挟み、自分の身内を重役にするように仕向け、自らが天皇になろうとするために、ニセのご神託を自作自演するなどやりたい放題であった様子。
奈良仏教の堕落は天皇の権威失墜にもつながり、桓武天皇は政治の刷新を図るために奈良から京都への遷都を決意します。下世話な話では道鏡はそれはそれは素晴らしいイチモツの持ち主で孝謙天皇を誘惑したと…。
↓この春画は江戸時代のものだそうですがなんとも下品で面白い春画です(笑)
画像引用元 デイリー春画
そんな堕落した奈良仏教に対抗すべく平安時代に生まれたのが最澄の天台宗と空海の真言宗です。また、鎌倉時代には武家の社会進出とともに時代が大きく変わりまた禅の到来とともに、鎌倉新仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗など)が生まれました。⇒鎌倉新仏教についてはこちらのコラムに記載しています。
泉涌寺の開祖である俊芿は宗派にこだわることなく、日本の仏教を広く学べる場としたということです。宗派ってそれぞれの教義を大事にするあまり他の宗派に対して厳しい排他的な対応をしがちなイメージだったのですがそんなこともなかったのかな?と思ったりしました。