別名”石の寺” 巨石や奇岩「鳥獣の庭」がある正法寺

仏教の庭

正法寺は京都市西京区大原野にある真言宗 東寺派の寺院です。奈良唐招提寺を創建した鑑真和上の高弟、智威大徳 が隠世したのが始まりです。

◆庭園レポート
「宝生苑」は東山連峰を借景とした石庭と、滝を模した池泉が特長の借景式山水庭園。石は視覚に収斂(しゅうれん)と膨張を起こすように設計配置されているそう。通称「石の寺」とも呼ばれているそう。境内全体で200tに及ぶ巨岩が全国各地から集められているそうです。

庭石の形が何となく鳥やペンギン、兎など15種類もの動物の形に似ているため「鳥獣の石庭」と呼ばれています。(ただし普通に眺めているだけではどれがどれだか…解説イラストを見ればわかりました)

しかし、なんと素晴らしい借景なんでしょうね。気温が20℃前後の過ごしやすい時期に訪れたので、東山を背に庭園を眺めながら風が吹くたび、爽やかな幸福感が身体を駆け巡ります。

そして穴場すぎて独占状態だったのも贅沢の極みでした。ありがたし。枝垂れ桜が立派なので春は混むのかもしれませんね。


門横の石庭も大胆で面白いです。石も借景も見ごたえがあり、幸福度の高い庭園でした。


◆拝観
9:00~17:00 無休

◆拝観料
300円

◆アクセス
京都市西京区大原野春日町1102 ⇒地図
阪急電車 東向日下車
阪急バス 南春日町下車 徒歩約7分


◆歴史のこばなし
冒頭の正法寺の説明で「鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟が隠棲したのが始まりなのに、なんで真言宗の寺院なんだ?」と疑問に思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

鑑真和上は奈良時代に唐(中国)から渡ってきて、日本に帰化した僧侶です。唐から渡ってきたといっても鑑真和上が「仏教を日本に広めるぞ」とやってきたわけではなく、時の天皇・聖武天皇の要請によるものでした。

その当時の日本は「律宗」といわれる戒律の研究と実践を行うための仏教が主でした。律宗の決まりとして、僧侶になるには戒律を遵守する誓い(授戒)を10人以上の僧侶の前で儀式を行うことが定められていました。しかし日本には仏教は伝来したばりの時代、”私度僧”と呼ばれる自分で出家を宣言した僧侶が多かったので戒律を重んじたい聖武天皇は「唐から授戒のできる僧侶を探して連れてくるように」と二人の僧侶を遣唐使として派遣。
聖武天皇

派遣された遣唐使は唐で超有名だった鑑真和上に、日本に来てくれる僧侶がいないか尋ねます。鑑真和上は多くいる弟子たちに日本行きを持ち掛けますが、その当時の船旅は3割が沈没したり難破したりして死んでしまう超デンジャラス。弟子たちは尻込みしてなかなか誰も承諾しません。見るに見かねた鑑真和上は自ら船での渡航を決意。すると、師の心にうたれた弟子21名もついていくことに。

遣唐使船。これで渡海するのは確かに怖いぃ…
画像引用元:船のお話

しかし、やはり一筋縄ではいかなかった船旅。5度も渡海に失敗し、6度目でようやく日本にたどり着きました。渡海に10年を要し、さらに日本にたどり着いた鑑真和上はなんらかの理由で失明していました(激しい疲労が原因との説や船の破片が目に刺さったとか、そもそも視力は弱くなってだけで失明はしてなかったとか諸説ありますが、めっっちゃくちゃな苦労を経て日本にやってきたのは大事実)。

それでも東大寺で戒壇をつくり400人もの僧侶に授戒をし、日本の僧侶の資格制度の礎となりました鑑真和上は唐招提寺を創建し唐招提寺にも戒壇をつくり若い僧侶たちに戒律を教え続け、76歳でその生涯を終えました。10年に及ぶ渡海、日本に帰化してからの多大な貢献など筆舌に尽くしがたい人生ですよね。

世界遺産にも登録されている唐招提寺。千手観音が圧巻なのです!

そんな鑑真和上の高弟の智威大徳が隠棲の地とえらび、その跡を伝教大師・最澄が大原寺の名で寺としました(ここで一回、天台宗の寺院になっている!)
さらにその後に、弘法大師・空海が巡錫(各地をめぐり歩いて教えを広めること)中に立ち寄り、42歳の厄除けとして聖観音像を彫刻されたと伝えられています。そうして真言宗ゆかりの寺院になったようですね。

 

ikeda

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日本庭園(特に古庭園)と歴史が好き。歴史のアレコレを調べるのと庭巡りがライフワークの管理人が発信するブログです。

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