『悟りの窓』から自分の心は見えるか・雲龍院

雲龍院は、南北朝時代の北朝第4代天皇の後光厳天皇の勅願で応安5年(1372年)に作られたお寺です。真言宗泉涌寺派の別格本山とされています。京都の寺院で「迷いの窓」と「悟りの窓」がある寺院はこの雲龍院と源光庵にしかありません。

◆庭園レポート
雲龍院には四角の「迷いの窓」と、丸い「悟りの窓」があります。四角い「迷いの窓」「迷いの窓」は、人生における苦しみを象徴し「生老病死四苦八苦」を表しているといわれています。
丸い「悟りの窓」は正確な真円を描いてる「悟りの窓」は禅における悟りの境地を表しています。

訪れたのが冬だったので、悟りの窓からの景色はこんな感じでした。落葉した枝の美しさと冬の凛とした冷たい空気。

ちなみに禅画などで見かけることもある〇△□。□は枠に囲まれとらわれた心を表し、△は座禅をしている姿「坐相」を表現しており仏と一体になることを表し、〇は悟りの境地・仏性・全宇宙を表しているそうです。

雲龍院は禅寺ではなく真言宗のお寺ですが、真言宗では悟りを得るために瞑想(止観)や三学を実践すること、あるいは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を実践することを教えとして説いています。


蓮華の間。室内で坐して、4つの障子窓から「椿・灯篭・楓・松」を楽しむことができます。

徳川慶喜が寄進したと伝わる灯篭。菊の御紋の形の砂紋は初めて見ました。珍しいです。皇室と密接な関係にある雲龍院ならではですね。


◆拝観
9:00~16:30 行事により拝観中止することも

◆拝観料
400円

◆所要時間
20分ほど

◆アクセス
京都市東山区泉涌寺山内町36 ⇒地図
JR・京阪電車 東福寺下車 徒歩約25分


◆歴史コラム
南北朝時代の北朝第4代天皇の後光厳天皇の勅願で建立された雲龍院ですが、
南北朝時代ってなんなんだ?という話を。

すごく長くなるので簡単にまとめると

・鎌倉時代後期、後継者争いによって二派に別れて交互に即位していた天皇家
・天皇に即位したが鎌倉幕府がウザくなった後醍醐天皇をきっかけに反幕府軍が挙兵
・それを抑える幕府軍の大将格なのに後醍醐天皇側に寝返った足利尊氏
・後醍醐天皇と足利尊氏の密な関係⇒が、長続きせず破局
・後醍醐天皇による足利尊氏討伐⇒一時期は九州まで逃げ落ちた足利尊氏
・九州の有力者を味方につけ返り咲いた足利尊氏(足利幕府スタート)
・奈良・吉野に落ちのびた後醍醐天皇は正統性を主張⇒吉野(南朝)・京都(北朝)の二つの王朝が生まれた
・南北に別れた二つの王朝が存在する時代は57年続いた
※室町時代初期と南北朝時代はかぶっています※

 

ややこしくなったきっかけは鎌倉幕府の執権職を担っていた北条時宗が朝廷内の皇位争いに介入したことから始まります。この時宗の介入で天皇家の家系が分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態になりました。
分裂した二つの家系は持明院統・大覚寺統とよばれ、さらにその大覚寺統の中でも後継者争いが勃発したりともうめちゃくちゃ。

 

その大覚寺統の後継者争いに鎌倉幕府もまた介入して調停役になったり。そして後継者となった後醍醐天皇。後醍醐天皇は天皇中心の政治を目指したので、幕府の執権である北条家と対立。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すために色々画策しますがバレてしまって島流しにあいます。しかし、これをきっかけに楠木正成や赤松則村など各地の武士が反幕府ののろしを上げます。

 

反幕府派を抑えるために鎌倉幕府から派遣された有力御家人の足利尊氏は、幕府側の旗色悪しとみるや鎌倉幕府を裏切って後醍醐天皇側に寝返り鎌倉幕府は滅亡しました。

 

後醍醐天皇の下でスタートした建武の新政でしたが、その内容に武士側は納得できず不協和音が鳴りはじめます。そんな時、滅ぼされた鎌倉幕府の北条家の遺児・北条時行が挙兵。鎌倉のくすぶりを抑えるために鎌倉にいた足利尊氏の弟、足利直義軍が迎え撃ちますが負けてしまいます。

 

弟・直義を救援するために足利尊氏は後醍醐天皇に出兵の許可を求めますが後醍醐天皇はこれを却下。
すると足利尊氏は勝手に自分で征夷大将軍を名乗り北条時行の軍を滅ぼし、配下の武士に褒美を与えだします。足利尊氏は褒美をよく与え、大盤振舞する気風の良さがあったと言われているのでその性格が出たのかもしれませんね。

 

尊氏の勝手なふるまいに後醍醐天皇は激怒。足利尊氏を討伐するための軍を編成(大将は新田義貞)します。足利尊氏は後醍醐天皇と争う気はなかったので一旦は鎌倉のお寺にこもりますが三河や駿河で足利軍が破れるとようやく戦う気になり新田義貞軍を破ります。

 

京都を占拠し、後醍醐天皇を坂本(滋賀県)へ駆逐した足利尊氏。しかし京都を占拠したのもつかの間、北畠や楠木正成・新田義貞の連合軍により九州に逃げ落ちることに。
ここで尊氏にとって幸運だったのは、尊氏を追っていた新田義貞軍が播磨で赤松則村の邪魔だてにあい、足利尊氏は逃げおおせ九州で体制を立て直す時間稼ぎができたこと。

 

九州の諸将(大友・島津ら)を味方につけ、楠木正成・新田義貞を湊川や和田岬で敗死させた尊氏は光明天皇を即位させ、北朝天皇が誕生。

 

後醍醐天皇は吉野に遷幸して皇統の正統性を主張。吉野(位置的に南なので南朝)と京都 (位置的に北なので北朝 ) の両王朝が誕生し、対立。両王朝とはいえ、現実には足利幕府vs南朝天皇家の抗争でした。

 

その後、足利尊氏の孫・足利義満が統一するまで約60年間、南朝と北朝とは対立していました。

 

最初は足利幕府vs南朝天皇家の構図だったものの、途中からは足利家の内紛に南北王朝は絡んだりしてややこしいのですが、理解しはじめると「よくもまあ、こんなに寝返ったり、裏切ったり、あらあら、まあまあ。」と次々に巻き起こる、覇を競う展開はほんとうにドラマティック。ぜひ、南北朝時代の本などを読んでみてください。