平たい鱗石がかなり珍しい真如院

仏教の庭

日蓮宗・本圀寺(ほんこくじ)の元塔頭である真如院(しんにょいん)。永禄年間に足利義昭が入洛した際、織田信長が真如院で迎えたと伝えられています。
瓜実灯籠・烏帽子石・呼子の手水鉢がある枯山水庭園は信長が義昭のために作庭させたもの。室町幕府の最後の将軍となった足利義昭は金閣寺を造営した足利義満、銀閣寺を造営した足利義政と同じように庭園に関心があったようです。そんな庭園好きな義昭にむけた織田信長なりのもてなしだったんでしょう。

◆庭園レポート
この庭園の最大の特徴は平たいうろこ形の石を並べて流れを表現したとても独創的な手法となっている点。

枯山水では白砂や小石が使われることが多いですが、この庭園の石は平たい形のまさしくうろこのような石がぴっちりと配され川の流れが表現されています。
寺の移転とともに現在地に移され作庭家・重森三玲の手により復元されました。特別公開日以外は非公開です。

真向かいや真横にはマンションが立ち並んだビルの谷間にあるので景観がいいとは言えませんが、強烈な個性が独特の世界観を醸し出していて、ぐいぐい心が引き込まれるお庭でした。
※真如院は撮影禁止でしたので真如院で購入したポストカードの写真を掲載しています。


◆拝観
特別公開以外は非公開
10:00~15:00

◆拝観料
600円

◆所要時間
15分ほど

◆アクセス
京都市下京区猪熊通五条上る柿本町677 地図
京都駅から市バス9番系統「五条堀川」下車 徒歩3分


◆歴史のこばなし

室町時代に弱体化してしまった、足利将軍家の権威。足利将軍を立てつつも、実質的に政権を担っていたのは細川家でした(細川政権)。

その細川政権を奪取し、将軍足利義晴を追放し三好政権を打ち立てたのが三好長慶です。三好長慶は阿波国の出身ですが畿内で勢力を奮い、政権を樹立するほどの勢力を誇りました。
三好長慶の死後は、一族の代表者三名による三好三人衆が三好家を支えます。三好三人衆は将軍親政(将軍家が政権を担うこと)を目指し、将軍家の再興を目指していた足利義輝を暗殺し、実質の京の支配者となります。

暗殺された義輝に代わり出家していた覚慶は還俗して足利義昭と名乗り、室町幕府の再興を目指します。三好三人衆を制圧して京に上洛するために、義昭は近江の六角家や越前の朝倉家に身を置きつつ斎藤龍興や織田信長、武田信玄や上杉謙信らに上洛の協力要請をします。

しかし、諸大名にとって兵を総動員して義昭を警護し、京に向かうということは領地がガラ空きになることを意味します。対立する隣国がある場合なかなか国を空けることが難しく、義昭の上洛計画は遅々として進みませんでした。

そうこうしているうちに、三好三人衆が自分たちの好きに扱えるお飾りの将軍としてバックアップしていた足利義栄(義昭のいとこ)が義昭より先に朝廷より将軍宣下を受けました。当時、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介で織田家に身を寄せた足利義昭は、織田家と浅井家の警護を受けようやく上洛します。

その当時の織田家は「向かうところ敵なし」の武力を誇っていたので三好三人衆は京から撤退しました。病に侵されていた足利義栄も同じ頃に死去したため、義昭は朝廷より将軍宣下を受けて15代将軍になりました。

この上洛の際に信長が足利義昭のために作らせたのが真如院の庭園です。この後、足利義昭は織田信長と対立することになり最終的には京から追放され、足利家の最後の将軍となってしまいました。

 

ikeda

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日本庭園(特に古庭園)と歴史が好き。歴史のアレコレを調べるのと庭巡りがライフワークの管理人が発信するブログです。

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