相阿弥作、いぶし銀の風情を醸す長楽寺のお庭

仏教の庭

長楽寺は805年桓武天皇の勅命によって、伝教大師を開基として大師御親作の観世音菩薩を本尊として創建。平安時代は天台宗・比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、室町時代の初期当時の一代の名僧国阿上人に譲られ時宗に改まり、明治39年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺と合併されました。

庭園レポート

河原町の円山公園のすぐそばに位置する長楽寺。京都イチの繁華街、河原町付近にあるとは思えない静寂さを持つ鑑賞式池泉庭園。室町時代、相阿弥が足利八代将軍義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられています。山肌を利用して作られた庭園で高低差を活かした奥行き感がお庭に重厚感を醸していました。

訪れたのが秋の少し天気が悪い日だったので空気が冷たく光が暗い印象で、ひとことで言うと「いぶし銀!」なお庭に感じました。ときおり差し込む光がまたたいて陰影をくっきりと浮かび上がらせ違った印象を見せてくれます。池の水面がきらっと光って渋い中にもさわやかな清涼感があり、静けさも相まってなんとも清廉な気持ちになることができました。


◆拝観
9:00~17:00
※毎週木曜は拝観休止(特別拝観の期間中は休日なし)

◆見学所要時間
30分ほど

◆アクセス
京都府京都市東山区円山町626

市バス「祇園」下車、徒歩10分
京阪「祇園四条」下車、徒歩15分


歴史コラム

当サイトのコラムで何度か登場する足利将軍家お抱えの「同朋衆どうぼうしゅう」について。同朋衆についてはこちらこちらのコラムでも書いています。同朋衆とは室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のことを指します立花、茶湯、香、連歌など文芸に秀でた人物が多く輩出され、猿楽能で有名な観阿弥・世阿弥も「同朋衆」でした。

同朋衆の役割は、殿中雑役でんちゅうざつえきでした。雑役とは使い走り・掃除・配膳・御酒奉行・御湯取り・贈答品取次ぎ・唐物奉行・座敷飾・立花・和歌・連歌にいたるまでのさまざまなことを指します。私は「同朋衆」というと「室町幕府のクリエイター集団」というイメージが強かったのですが、同朋衆は文芸的なものから使い走りまで幅広く雑多である役割を担っていたようですので一概に「同朋衆=文芸的なもの」とくくるわけにもいかないようです。

同朋衆が文芸に秀でた集団であるというイメージを強くしたのは同朋衆の代表的存在、三阿弥の存在が大きいかと思います。長楽寺を作庭した相阿弥もその三阿弥のうちの一人です。

本来は毎阿弥、能阿弥・芸阿弥・相阿弥の四代によるものですが、毎阿弥に関しては残されている資料が乏しくその活躍が定かではないため「三阿弥」とされることが多いようです。
能阿弥・芸阿弥・相阿弥は「唐物奉行」として唐物(中国から輸入された茶碗などの茶道具や水墨画や座敷飾に使用する品)の鑑定・修繕・保管が本来の任務でした。その鑑定眼を養うために自らも筆をとり、書や画をたしなむようになりめきめきと本人たちも上達していきます。連歌会がブームになった時期でもあったので同朋衆は連衆として連歌会に参加することも多く、必然的に連歌への造詣も深くなった模様。能阿弥・相阿弥は連歌の名手でもありました。
↓相阿弥の描いたもの。リス?かわいい。

三阿弥の重要な仕事の「座敷飾」は連歌会や茶会などがおこなわれる会所を唐物で飾りつけることで、三阿弥はその最高責任者でした。今でいうと超VIPが訪れるパーティー会場の飾りつけをするスタイリストのようなものだったかと。
この座敷飾(床の間や付け書院・違い棚の総称)は書院造の重要な要素で、書院造は近代の住宅様式の基礎になっています。相阿弥が「数寄の始祖」と呼ばれることがあるのもこのあたりが理由だそうです。数寄とは風流・風雅に傾倒すること、茶の湯や華道などの芸道に邁進することをいいます。茶室を「数寄屋」とも呼びますね。
そんな当時の最高峰のセンスの持ち主が作庭したものを現代でも見れるってほんっとうに素敵なことですよね。

↓連歌会の座敷飾り。掛け軸の前に三具足(香炉・燭台・花瓶)を飾っています。

ikeda

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日本庭園(特に古庭園)と歴史が好き。歴史のアレコレを調べるのと庭巡りがライフワークの管理人が発信するブログです。

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