東大寺・指図堂のある場所は平安時代に創建された中門堂の跡地です。永禄10年(1567)の三好三人衆vs松永久秀が東大寺周辺で争っ
た乱でこの堂舎が大仏殿とともに焼失しました。100年余りを経た江戸時代初期、大仏殿三度目の復興時に、この場所に大きな板絵に描かれた「指図」すなわち大仏殿の計画図面を展示するお堂が建てられました。指図堂という名称はこのことに由来しています。その後、お堂は台風のために倒壊したが、浄土宗関係者からお堂を再建したいとの願い出が東大寺に出され、浄土宗徒の喜捨を受けて、嘉永5年(1852年)頃再建されました。それが現在の指図堂です。
庭園レポート
東大寺の西側の一段低いところに位置している指図堂。茶室がいつ建てられたのかは定かではないそうです。高床の茶室「遣迎庵」は南側に七畳半の座敷と玄関、北側に三畳の茶室、水屋等が配されています。茶室の三方に庭が展開し、竹塀で区切られています。遣迎庵から庭越しに見る大仏殿の雄姿はまさに圧巻!!です。
お庭には素掘りの池があり、その南に築山、北に低い野筋を配し、座敷の南には平場を設けています。築山には池につながる向きで枯流れと思われる石組みが組まれています。築山頂部の遠山石には伽藍石を据え、六角灯籠の台石としています。若草山をイメージさせる芝生の曲線、点在する伽藍石は東大寺の“壮大な伽藍景観”を象徴的に表現しています。
古くからある幽すいな雰囲気が漂う細長い池と枯滝石組は発掘調査の成果に基づいて、造園学者である尼崎博正氏を中心に修復されました。新たに加わった知足院の奈良八重桜をはじめ、東大寺ゆかりの草木たちが庭の季節を彩ります。訪れた時はちょうど初秋でしたので木々が色づき始めていました。
東大寺の壮大さを間近に感じながら、奈良の植物や池泉、石組みまで楽しめるここにしかない景色を楽しめるお庭となっています。
◆拝観
土日祝のみ 9:00~16:30
◆拝観料
不要
◆拝観所要時間
およそ30分~40分ほど
◆アクセス
奈良県奈良市雑司町406−1 指図堂
歴史コラム
冒頭でも書いていますが「東大寺大仏殿の戦い(多聞城の戦い)」は東大寺周辺で繰り広げられた三好三人衆vs松永久秀が起こした戦いです。その戦の最中、大仏殿を焼いたとされているのが松永久秀です。実際には失火であり松永の陣営が火をつけたわけではないそうですが…。この松永久秀は主家の乗っ取り・将軍殺し・東大寺の焼き討ちをしたとして「戦国の梟雄(残忍で勇猛)」とも呼ばれ、江戸時代に浮世絵が創作されるほど有名でした。
▲歌川芳幾の浮世絵。なんて悪い顔のおっさんなんでしょう…。平蜘蛛の茶釜をたたき割っているシーンですね。
さすがの松永久秀も足利義昭を擁立し幕府を再興した織田信長の勢力には敵わず、一時は織田信長に屈するものの謀反を起こして茶釜に火薬を詰めて爆死したとする創作の逸話も有名です。なぜ茶釜で爆死かというと、松永久秀は茶人でもありたくさんの名物を所持していました。織田信長が、松永久秀の所持する大名物「平蜘蛛の茶釜」を差し出し降伏すれば命は助けてやると交渉するも、久秀はそれを断り平蜘蛛に火薬を詰めて爆死したという創作話です。平蜘蛛の茶釜は落城の際に、叩き割ったとも伝わっています。松永久秀が所持していた大名物といえば「平蜘蛛の茶釜」と「つくも茄子」です。「つくも茄子」は織田信長に恭順を示す証として、差し出しています。天下の大名物と言われる当時のお宝を松永久秀はなぜ所持できたのでしょうか?
松永久秀は「松屋会期」にも竹野紹鷗(千利休の師)の茶席に松永久秀が客として参加していたことが記されています。また千宗易(のちの利休)や堺の豪商とも茶席を共にしており、ハイレベルな茶人であり当代随一の茶人と交流を持っていたことがわかっています。
「つくも茄子」は三代将軍・足利義満の秘蔵の唐物茶入れで、将軍家に伝えられ愛用されていました。八代将軍・義政の時に寵臣・山名政豊に与えられましたが、義政の茶道の師であった村田珠光(侘茶の祖)の手に渡ります。珠光はこれを九十九貫文で購入したそうです。そのことを、伊勢物語の和歌「九十九髪」になぞらえ「つくも」と名付けたそうです。堺市史に「つくも茄子も珠光の鑑定で世にでたのである」と記載されているように、当代随一の茶人で目利きとしてあらゆる名物の鑑定人であった珠光がお墨付きを与えたわけです。
▲村田珠光。侘茶の始祖ともいわれる、千利休のお師匠さんのさらに師匠的な茶の湯のすごい人。
珠光から三好宗三の手に渡り、さらに越前一条谷の朝倉太郎左衛門が五百貫(およそ5千万円)で入手。さらにその後、越後の豪商の小袖屋が一千貫(およそ1億円)で手に入れたそうです。戦乱の越後にそんなお宝があると心配ということで、小袖屋は京都の足袋屋に「つくも茄子」を預けたそうです。しかしこの後、天文法華の乱が起こったことにより松永久秀の手に渡ることになります。
天文法華の乱とは、比叡山延暦寺の華王房が法華門徒の松本久吉と宗論して破れた(松本問答)のをきっかけに長年対立していた、法華経を信じる日蓮宗徒と比叡山延暦寺の武装集団とが戦った宗教戦争のことです。問答では敗れた延暦寺でしたが、力技で日蓮宗徒を京都から追い出します。延暦寺は当時の朝廷(国家権力)の後ろ盾もありましたし、すごい権勢を誇っていたので新興勢力の浄土宗や浄土真宗、日蓮宗とはよく揉めましたし、親鸞も日蓮も迫害を受けて島流しにも遭っています。まあ、そんなこんなで日蓮宗の大ピンチだったのです。
そのさなかに「つくも茄子」は日蓮宗・本圀寺の有力支持者であった松永久秀の手に渡ったとされています。おそらく小袖屋も足袋屋も日蓮宗徒で本圀寺に「つくも茄子」を委ねていたのかと思われます。松永久秀もおよそ一千貫(およそ1億円)で手にいれたのでは、とのこと。当時の松永久秀のイケイケぶりがわかるエピソードです。しかし、破竹の勢いの織田信長にはかなわず断腸の思いで「つくも茄子」を献上しました。いや~悔しかったでしょうね…。さらにその織田信長に、命助けてやるから平蜘蛛の茶釜もよこせっていわれたら腹立って叩き壊すのもまあ理解はできますね。
織田信長もこの大名物を大事にしていたのか、本能寺の変の際にも本能寺に持ち込まれていたそうです。奇跡的に焼け跡から発見され、秀吉の手にわたっています。その後、大阪夏の陣の際に破損してしまいましたがこれまた奇跡的に見つかり、徳川家康の命で修復のため漆接ぎの名工・藤重藤厳の手によって修復され、藤重家に代々伝えられます。明治になって三菱財閥の岩崎弥之助氏の所有となり、現在は東京世田谷の静嘉堂文庫美術館に保存されています。
お宝と名のつくものは代々主を変えて世の中の移り変わりを見てきたのでしょうけど、つくも茄子ほど「盛者必衰」を間近で見た者はないんじゃないかと思うくらいの主の変わりっぷりです。こんな小さな茶入れにたくさんの歴史が詰まっているんですね。東京の静嘉堂文庫美術館で実物が見れる機会もあると思うのでぜひ!