蓬莱式の池と華麗な石組にときめく根来寺の庭

仏教の庭

根来寺は高野山の学僧でもあった覚鑁かくばん上人によって開創された新義真言宗の総本山。開山以来、約900年の伝統を誇る古寺です。

庭園レポート

紀州徳川家の別邸を移築した「名草御殿」に面する書院庭園は江戸時代に作庭され、小堀遠州の作庭と伝わっていますが、真意のほどは不明です。昭和33(1958)に国指定名勝を受けた庭園です。書院を囲むように作成された池泉蓬莱式庭園です。

山の斜面を利用した滝石組が目をひく、華麗な護岸石組。滝石組は滝上部に橋を渡す玉澗流の手法が使われています。⇒玉澗流についてはこちらにも記載しています。鶴石と亀島をつなぐように橋がかかっています。ちょっと見えにくいですが、亀島の先に洞窟石組がありました。蓬莱山には仙人の住む洞窟があるという言い伝えから、蓬莱式庭園には洞窟石組が作られることがあります。

池の形が東から西へとつながったL字型になっているのがとても面白かったです。訪れた前の日が雨だったようで水かさが増し、枯山水部分に浸水していました。これも自然の営みによって七変化するお庭の面白さですよね。

華麗な石組部分とすっきりとした白砂敷部分との対比もすてきです。石組を間近で見るのも回廊から全貌を見るのも、それぞれに受ける印象が異なって楽しめるのもこの根来寺のお庭の特長かと思います。


◆拝観
4月~10月 9:10 ~ 16:30
11月~3月 9:10 ~ 16:00

◆拝観料
500円

◆拝観所要時間(境内+お庭)
40分ほど

◆アクセス
JR岩出駅からタクシーで10分またはバスで22分
和歌山県岩出市根来2286


歴史コラム

根来寺は空海を始祖とする真言宗の宗派の一つ新義真言宗です。真言宗は空海が平安時代に開いたことはご存じかと思いますがよく聞く「真言密教」の「密教」とは?

密教とはインド仏教の「最後の姿」です。インドでブッダが教義を唱え、人々を夢中にさせた仏教ですが僧が寺院に引きこもり教理研究に明け暮れることになったため、だんだんと求心力を失いインドの人々は仏教を離れヒンドゥー教へ傾倒していきます。そんな時に登場したのが密教です。閉じこもってしまった大乗仏教に対して、密教はヒンドゥー教の要素を取り入れマッシュアップし信者を獲得していきます。ヒンドゥー教の要素である呪文や祈祷を重視し、よりヒンドゥー教に近くなっていきます。皮肉なことにその結果、仏教としての特性を失ってしまったことに加えイスラム勢力の勢いに負けついに仏教は滅んでしまいました。

密教はインドで滅びる前に、唐時代の中国に伝わっていました。インドから伝わった金剛頂経の密教と大日経系(胎蔵界系)の密教を学んだ恵果という中国の僧に弟子入りしたのが、日本から来た空海でした。空海は恵果のもとで密教の奥義を学び、日本に帰国します。

金剛界、胎蔵界両方の密教は空海の中で一つになり体系化されて日本で「真言宗」となります。空海が持ち帰った多数の経典や曼陀羅、図像、法具類などはその後の日本の思想や芸術、土木建築などに多大な影響を与えます。

なぜ、密教がそのように大きい影響を与えたのか。その理由として当時は国家の危機や災厄などは呪文や祈祷で回避できると信じられていたことにあります。桓武天皇は度重なる災厄のため、ノイローゼのような状態にありその窮地からの救済を求め密教に多大な期待をしていました。だから先に帰国した最澄にも密教の力を発揮してくれるように期待しました。ところが最澄の密教は少し中途半端な面もあったようでした。そんな時本格的な密教を持ち帰った空海は天皇や朝廷の庇護を受けて一躍、時の人になります。

空海のもたらした密教の影響は大きく、ほかの宗派も密教を取り入れたほど。特に天台宗は密教を積極に取り入れました。天台密教ということで「台密だいみつ」と呼ばれ、真言宗の密教は東寺を基盤としたので「東密とうみつ」と呼ばれるようになります。

空海は布教だけでなはく社会活動も積極的におこないました。庶民のための教育の場として東寺の近くに綜芸種智院しゅげいしゅちいんをつくりました。寮まで完備されており、仏教だけでなく文化全般を教えたそうです。また空海の故郷・讃岐で氾濫が頻繁に起き人々を苦しめていた満濃池をわずか三か月で修築し、人々を驚かせたそうです。

インドでヒンドゥー教と混ざって特色を失い消えてしまった密教ですが空海によって日本に伝わり、今日にいたるまで人々に信仰されているなんて面白いですよね。

ikeda

ikeda

日本庭園(主に古庭園)と歴史が好きな管理人が日本庭園の紹介と歴史コラムをと書いています。京都芸術大学大学院環境デザイン領域日本庭園分野を修了。書いた論文を当サイト内でも公開しています。

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