瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。9世紀初頭に天台宗の寺院として創建、鎌倉時代には臨済宗建長寺派へと改宗、関ヶ原以後は伊達政宗が復興に尽力するなど由緒のある寺院で、国宝に指定されています。
庭園レポート
瑞厳寺の中庭は2018年に整備された新しい枯山水庭園です。滝から流れ出た水が松島の豊かな島々を育み、鎌倉~桃山より連綿と受け継がれてきた歴史・文化・自然の中で、僧侶が坐禅をする姿を表しています。現代の枯山水らしいモダンな雰囲気をまとっています。私はゴリゴリの古庭園好きですが、新しい現代の庭園ももちろん好きです。伝統を踏襲しながら現代の技術やセンス、価値観を籠めた庭園は古庭園から受ける印象とは当然ですが違います。
モダンで洗練されている場合もありますし、活き活きとした闊達さを感じることが多い気がします。日本庭園は生きている芸術といってもいいと思いますが、現代の庭にはフレッシュさを感じたりぷるっとした弾力を感じます。使っている素材が若く新しいということもあるでしょうが、それだけではなくやはり現代の価値観が籠められているから?と思ったり。古庭園と現代に作られた日本庭園を見比べてみるのも楽しいですのでお勧めです。
伊達政宗がお手植えしたと伝わる「臥龍梅」4月初頭に訪れたのですが見頃でした。
◆拝観
冬季 午前8:30~午後4時 / 夏季 午前8:30~午後5時
◆拝観料
700円
◆見学所要時間
30分ほど
◆アクセス
仙石線 JR松島海岸駅より徒歩10分
東北本線 JR松島駅より徒歩25分
宮城県宮城郡松島町松島字町内91
歴史コラム
古い歴史をもつ瑞厳寺。平安時代には奥州藤原氏にも庇護されていました。平泉を本拠地とし東北地方を支配した「奥州藤原氏」と「藤原氏」の違いとは?そもそも藤原氏って??
藤原氏の始祖は中大兄皇子(のちの天武天皇)の右腕として有名な「中臣鎌足」です。中臣鎌足という氏名を天武天皇から賜ったのち「藤原」の氏を賜っています。
藤原鎌足の子孫で有名なのは日本書紀を編纂した藤原不比等(鎌足の息子)や、平安時代に藤原氏の栄華のピークを迎えた藤原道長。藤原不比等の後、三代目の時に4つの分家に分かれます。ここから少しややこしくなります。その4つの分家「南家・北家・式家・京家」を藤原四家といいます。そのうち「藤原北家」が実力をめきめきとつけ藤原氏の嫡流=藤原北家のことをさすようになり、藤原道長の時代に最盛期を迎えます。
栄華を極めた藤原氏も時代の流れとともに(武士の台頭などによって)衰退していきます。権力を維持するために藤原忠通は息子の藤原基実を平家の娘と結婚させます。その藤原基実が近衛姓を名乗り、近衛家が誕生しました。
藤原忠通は「摂政・関白(公家の最高位)」の職を身内で独占する(跡継ぎが絶えた場合も分家から跡継ぎ候補を担ぎ出せるように)ために、近衛家の他に息子の兼実を分家させ九条家が誕生。さらに近衛家から分家して鷹司家が誕生、九条家から二条家と一条家が誕生しました。ややこしすぎますよね。何回聞いてもいつも順番がこんがらがります。
「近衛家・九条家・鷹司家・二条家・一条家」を「五摂家」とよび、鎌倉時代には摂政・関白をこの5つの家で持ち回りで職務についていました。藤原北家から派生した五摂家はずっと朝廷の重要なポジションを担っていたのです。
五摂家以外で関白に就いたのは豊臣秀吉とその跡継ぎとされていた豊臣秀次だけ。豊臣秀吉は近衛前久の猶子(養子のようなもの)になり藤原朝臣姓を手に入れて関白の位につきました。秀吉がなぜ関白職を手に入れたかったについては武家の最高位「征夷大将軍」よりさらに上の位であったから、など諸説あります。
これが中央の藤原氏の嫡流の経緯です。さて、奥州藤原氏と藤原北家から派生した五摂家は特別なつながりはないものの、少なくとも藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏から認められていたようです。
藤原経清は在庁官人として陸奥国府多賀城に勤務していたと見られています。その息子の清衡が奥州藤原氏の初代です。あれ?父が初代じゃないの?と思いますよね。
陸奥で勢いのあった豪族・阿部氏の反乱がありそれを討伐したのが源頼義。この時、父の藤原経清は阿部氏側に加担していたということで処刑されてしまいます(本当は息子である清衡も処刑されるはずでしたが母が敵将の清原氏に嫁ぐことになったため免れました)。母の再婚に伴い、豪族・清原氏の養子となります。清衡が27歳の時に清原家の義理の兄や弟と内紛状態になり、一時は敗退するも源義家の力を借りて内紛を制し覇者となります。清原氏からすると情けをかけて助けた子供がゆくゆくは家を滅ぼすなんて、なんとも言えないものがありますが覇者となった清衡は実父の姓の藤原姓に戻し、奥州藤原氏が誕生します。平泉を中心に平和を祈願した仏教都市を作るなど奥州の文化発展の礎となりました。