願泉寺は飛鳥時代(603)に、開基された古刹。室町時代、同朋衆として足利将軍に仕えた相阿弥によるもので室町時代に作庭。堂宇は戦国時代の末期に消失し、江戸時代に再建されたそう。庭園は改修もされていますが、室町時代の面影も残っていると推測されます!大阪市のど真ん中に室町時代の庭園があるのはかなりレアかと思います。
庭園レポート
お寺の横手にあるお墓を通り過ぎたら入口の門がありました。 室町時代の作庭家の相阿弥の作庭と伝わっています。ギュギュっと凝縮されたかのように石がふんだんに組んである枯山水庭園です。ところどころコンクリートが見えるのは改修の跡のようです。圧の強めな築山の枯滝石組と立派な石橋とが相まって迫力のあるお庭です。
石橋のそばに青石がたててありました。蓬莱山なんですかね?ここだけ周囲の石組の「ドラァ!」って感じの圧から抜けていて、端正ですっきりとしていて。抜け感、大事ですね。
立派な茶室もあります。腰掛させてもらって庭園を眺めました。ただ、めちゃくちゃ暑い日に行ったので、早々に引き上げましたが…。都心にあるのでアクセスも良く、帰りに町をぶらっとできたりするのがよかったです。
◆拝観
無休(7時ー16時)※庭園への門が閉まっている場合あり 要電話確認
◆拝観料
無料
◆見学所要時間
15分ほど
◆アクセス
地下鉄御堂筋線「大国町」徒歩6分
歴史コラム
Niwasoraの歴史コラムではもう何度もでてきている足利将軍お抱えのクリエイター集団(と言われこともある)同朋衆についてですが⇒同朋衆についてはこちらとこちらのコラムで紹介しています
「同朋衆」の研究が進んだのは戦後、仏教史研究(なかでも時宗の研究が進んだことによるもの)が大きいようです。歴史の中で同朋衆の存在とその役割を評価した最初の文献は「山上宗二記」であると村井康彦氏の「武家文化と同朋衆(ちくま文芸文庫)」に書かれています。
「山上宗二記」は山上宗二が1588年に記した茶道具の秘伝書。その中で足利義政の芸術性や能阿弥、芸阿弥、相阿弥(いわゆる三阿弥)の役割について評価した東山文化論が記述されています。
山上宗二は千利休の一番弟子ともいわれた人物。千利休とともに豊臣秀吉の茶頭も務めていましたが豊臣秀吉の茶の湯への姿勢(織田信長以上に茶の湯を政治の道具にしようとしたことなど)に批判的であったことが原因で茶頭の役割を解任され、出奔。その後、秀吉と敵対関係にあった小田原の北条家で茶の湯指南役を務めます。秀吉の北条攻めの際に北条家に仕えていることが明るみになります。さらに「山上宗二記」には豊臣秀吉への批判ともとれるような記述もあったため反逆者としてみなされ処刑されてしまいます。なんでも耳と鼻をそぎ落とされたうえ斬首されたそうで…むごいですね。ちなみに「山上宗二記」は当時を知る確実な資料として重要視されています。
↓古田織部を描いた漫画、へうげもの(山田芳裕)にももちろん登場してます(汗だくになってるのが宗二)
一番弟子を殺された千利休の恨みは相当なものだったとのことで、豊臣秀吉への禍根がゆくゆくの二人の決別を招いたと思われます。