大乗院とは、1087年(寛治元年)に創建され、平安時代から江戸時代に栄えた門跡寺院のひとつです。同庭園は室町時代に荒廃しましたが、室町時代に活躍した作庭の名手・善阿弥とその子らによって改修されます。将軍足利義政を始め、公家たちがしばしば拝観に訪れ、以降、明治初頭まで南都随一の名園と称えられていました。1995年からは奈良文化財研究所による発掘調査と並行して、江戸時代末期の門跡・隆温が描いた「大乗院四季真景図」をもとに復元工事が進められ、この度平城遷都1300年祭に伴い、一般公開が開始されました。
◆庭園レポート
奈良ホテルのすぐ目前にある旧大乗院庭園。室町時代に善阿弥とその子らが足利義政の命によって改修したと伝えられています。平成に入り復元工事が行われました。まず目に飛び込むのは広い敷地に広がる鮮やかな緑!奈良は高い建物がなく、とても空が広々として奈良のスカっとした空の感じが大好きなんですけど、折しも夏の良く晴れた日の青空と緑のこのコントラスト!美しいことこの上ありません。
曲水を思わせる池泉のラインも素敵でした。なめらかで柔らくて…水面がますます綺麗に見えます。
回遊式の大池泉庭園。足裏に芝生やシロツメクサのふわふわを楽しみながら歩きます。木陰に入って池泉を眺めたり。なんなんですかね、この解放感は…。ストン、ストンと余計なものが落ちていくようなそんな気分になる解放感があります。
広い庭園ですが人影もまばら(真夏に炎天下の最中だったので)。美しい景色をひとりじめも可能。本当になんなんだろう、このほどけていくような感じは。もし「めちゃくちゃに癒される庭ってどこですか」と問われたら全力で旧大乗院庭園を推したいです。そんな柔らかでなだらかで解放感のある庭園です。
◆入園
9:00~17:00
◆入園料
200円
◆アクセス
奈良市高畑町1083-1 ⇒地図
JR奈良駅・近鉄奈良駅から、天理・下山行バス約8分で「奈良ホテル」下車南へ100m。
◆歴史のこばなし
こちらの歴史のこばなしで相阿弥および同朋衆のことを少しだけ書いています。足利義政の同朋衆であった相阿弥は作庭だけでなく書画の管理・鑑定、香、連歌、茶道など多方面で活躍しましたが、善阿弥は作庭に特化した人物でした。「河原者」と呼ばれる被差別出身の身ながら足利義政に重用されました。河原者は屠畜や皮革加工を主な生業とし、河原やその近辺に住んでいる者はそう呼ばれ差別されていました。河原者は造園業の他にも井戸掘りや芸能、行商などに従事していました。
善阿弥は若い頃から造園業にいそしんでおり、義政の父・義教の時代からその名前が文書に残っているそうです(善阿弥と名乗りだしたのは70歳頃で、中年期は虎菊という名だった)。黒田氏から義教に献上される予定だった梅を三人の河原者の庭者が運搬していた⇒その途中で枝が折れてしまった⇒その事に立腹した義教はその庭者を捕らえて収監!そのあまりの厳命に恐怖を訴えているのが善阿弥だった、というエピソードも残っています。そんな苛烈な義教の元でも技術を磨き、奉仕し生き延びていった善阿弥。
怒ると何言いだすかわからない、色々怖すぎる足利義教。ちなみに比叡山焼き討ちを信長よりはるかに先に敢行したのもこの人。
そんな善阿弥は義教の子である足利義政から並々ならぬ愛護を受けます。とにかく善阿弥の高い造園技術を大事にしていた義政。義政自身が建築や作庭・芸術に傾倒していた将軍ということも大きかったのでしょう。しかし義政が重用していた時、善阿弥はすでに70代に突入していたと考えられ、善阿弥の高い技術を支えていたのはその後継や仲間の河原者の技能集団の存在があったのだろうと推測されます。高齢の善阿弥が病になった際には高名な医師が直々に薬を与えるなど、河原者の善阿弥へ手厚い待遇を施しています。これも義政の善阿弥への寵愛があったからだと思われます。
芸術に傾倒して政治を放り出したともいわれる義政。しかし日本文化の礎を築いた天才的な文化プロデュース力での功績は偉大。
室町時代に書かれた「蔭涼軒日録」(相国寺の鹿苑院 (ろくおんいん) 内の蔭涼軒主の日記。当時の禅宗の制度、文物、室町幕府の政情や武家社会の動静などを知るうえに不可欠の史料)にも善阿弥の名前はたびたび登場します。
なかでも「善阿弥の築いた小さな丘や池の水連を見てその遠近の峯の様子がすばらしくて見飽きない。忽然として帰路を忘れるほどだった」という記述は、善阿弥の技術や作庭力の高さをうかがわせる記述となっています。
有名なところでは、慈照寺(銀閣寺)の作庭は泉回遊式庭園は善阿弥による作庭と言われています。現代では考えられぬほど身分関係が厳しかった時代に、才能を開花させて羽ばたいた善阿弥を思いながら鑑賞してみてください。