夜の翠を思わせる幽玄な佇まいの毘沙門堂・晩翠園

毘沙門堂門跡の創建は大宝三年(703)。文武天皇の勅願(勅願)で僧行基によって開かれた。その後、たび重なる戦乱から苦難の道をたどり、寛文五年(1665)山科安朱の地に再建。後西天皇の皇子公弁法親王が入寺してより門跡寺院となりました。ご本尊に京の七福神のひとつ毘沙門天を祀ることからこの名になったそうです。

◆庭園レポート
谷川の水を引き、滝を造った江戸初期の回遊式庭園。

「心字」の裏文字を形取った池に、亀石、千鳥石、座禅石などが配置されています。山裾の枝間は暗く、まるで夜の翠を思わせることからこの名前になったそうです。山と一体となったお庭で、幽玄な雰囲気がたまらないです。


かなりいい味出してる手水鉢は銘器として名高いそう。訪れた時期は少し緑が少ない時期だったのですが、夏は木々がもりもりと、秋は色とりどりの様子を見せてくれるようで、訪れる時期によって印象がかなり変わりそうなお庭です。今度は溢れるばかりの生命力の夏の姿が見てみたいなあと思いました。


◆拝観
8:30~17:00 (最終受付16:30)
8:30~16:30(最終受付16:00)【冬季】

◆拝観料
500円

◆所要時間
20分ほど

◆アクセス
京都市山科区安朱稲荷山町18 ⇒地図
JR山科駅、市営地下鉄山科駅、京阪山科駅下車、徒歩約20分


◆歴史のこばなし
創建は703年と大変古い毘沙門堂門跡(その当時は護法山出雲寺という名称)。795年には伝教大師(最澄)の自刻の毘沙門天を本尊にし、天台宗のゆかりの寺院となります。その後、何度も戦火や火災に見舞われました。室町の終わり、応仁の乱で焼失。その後、再建されるもまた火災で焼失。1611年、江戸時代の初期に天台宗のとても有名な僧侶・天海大僧正に再興の命令が下りました。


この天海は南公坊天海とも呼ばれています。徳川家康にとても重用されていたブレーンとしても有名で、江戸の都市計画や日光東照宮建築など徳川幕府においてとても大きな権力を持っていた僧侶です。

徳川家康と天海はなぜこんなに蜜月の関係になったのか、それはいつ頃からなのか。

会津で生まれた天海は10代前半で出家し、18歳の時に延暦寺へ。22歳の時には奈良の興福寺で学んでいましたが、母の危篤で故郷の会津に戻り、その後は足利学校で儒学・漢学・易学・天文学・医学・兵学を学びめきめきと頭角を現します。

↑比叡山延暦寺 根本中堂

大変な頭の良さが評判となり、明智光秀の仲介で甲斐の武田信玄に招かれて甲斐で僧侶を勤めます。その後、地元の会津の葦名氏の要請で地元に戻り16年間会津にて僧侶を勤めます。しかし葦名氏が伊達家との戦いに敗れると、武蔵・川越城の近くの寺院に移ります。

1596年小田原の戦いの後、豊臣秀吉の命により江戸入りした徳川家康。天海が住職を務める寺院・喜多院の再興のための寄進を求めて初めて徳川家康と対面します。天海はこの時60歳、徳川家康53歳の時でした。天海の人並外れた見識に驚いた家康は、天海を参謀にすることにしました。

その後の天海の動きは目を見張るものがあるので、以下に列挙します。

・関ヶ原の戦いに参謀として参戦
・江戸の都市計画、東海道の整備
・比叡山の南公坊に移り延暦寺再興
・後陽成天皇の勅命で毘沙門堂の再興
・家康の要請で武蔵の喜多院に戻り、寺領として4万8千坪を拝領
・大阪冬の陣のきっかけ「方向寺鐘名事件」の策を授けた(諸説あり)
・大阪冬の陣で参謀として参戦(73歳で!)
・徳川家康が倒れたと聞くと朝廷にかけあって徳川家康を太政大臣にする(武士では史上4人目)
・徳川家康の死後、神号「東照大権現」を主張し日光に徳川家康を祀る
・二代・徳川秀忠、三代・徳川家光からも信頼が篤かった
・天台宗関東総本山として上野に寛永寺を創建
・108歳で没する(諸説あり)

60歳を過ぎて家康と出会ってからのこの働き!すごすぎる!この時代の人にしてはかなりの長寿だったそうで、そのことからも人間離れしたイメージをもたれている天海。

とても有名な話ですが、明智光秀が本能寺で織田信長に謀反を起こしその後、豊臣秀吉との山崎の戦いで落ちのびて天海になったという説もあります。

いつごろ唱えられた説かはわかりませんが(歴史学者の中でこの説を支持している人はいないそうですが)日光に明智平と呼ばれる土地があったり、明智光秀の孫は大阪の陣で豊臣方に加担したけど助命されていたり、天海の墓所が明智光秀の所領であった近江の坂本にあることなど重なる部分が多いので天海=明智光秀説に結び付いているそうです。

真意のほどはどうであれ(多分フィクションだとは思いますが)時代に翻弄されまくった明智光秀が天海となり、徳川幕府の幕政を牛耳ったと思うと少しワクワクしますよね。