禅宗に傾倒した足利尊氏
室町幕府の初代将軍である足利尊氏。大酒を飲んだあとでも坐禅を怠ることはなかったというほど禅宗に傾倒していたといいます。主家であった鎌倉幕府を裏切り、鎌倉幕府滅亡を共謀した後醍醐天皇とも対立し破滅へ追いやりその渦中で新田義貞や楠木正成など数多くの武将を滅亡させ、冷酷非道なイメージの尊氏。大義名分があろうが、己のとてつもない宿命や罪業に一人の人間として心を痛めていたことは想像に難くありません。
罪滅ぼしの気持ちからなのか、後醍醐天皇が崩御した時は莫大な資金をかけて天龍寺を建立しています。⇒後醍醐天皇と足利尊氏の関係についてはこちらのコラムを参照してください
天龍寺の開基として尊氏に選ばれたのが夢窓疎石でした。夢窓疎石は室町時代の禅宗をリードした大人物ですが、そこまで上り詰めたのには足利尊氏の庇護の影響もありました。
夢窓疎石の生涯についてはまた別の特集で掲載予定ですが、33歳の時には師であった高峰顕日から後継者に指名されるほどの名声を得ていました。鎌倉幕府の執権、北条高時にもとても気に入られ鎌倉幕府の庇護を受けていた夢窓疎石。51歳の時には後醍醐天皇の勅使により南禅寺の住持を務めたりもしました。その頃、尊氏は20代前半。関東禅林で知らぬものはいないほどの名声の夢窓疎石をどのように見ていたのでしょうか。
やがて足利尊氏と後醍醐天皇の共謀により鎌倉幕府が滅亡。その後、再び後醍醐天皇の勅命によって夢窓疎石は南禅寺の住持を務めることになるのですが、その招請を請け負ったのが足利尊氏。夢窓疎石と足利尊氏の交遊が始まったのではとされています。
北条執権とも後醍醐天皇とも密接な関係であった夢窓疎石。尊氏がもし、前政権の人脈を一掃する気であったなら夢窓疎石も表舞台から姿を消していたかもしれません。しかし尊氏は夢窓疎石の弟子となり自分の政権下に招き入れました。
夢窓疎石を重用し、徳治政治を目指した
徳治政治とは「徳をもって人民を治めるべき」とした儒教の政治理念のことです。天下を治めるには武力を行使するよりも徳治の効果の方がずっと大きいといわれています。武力で抑えても不満は噴出する一方でしょうし反乱がおきます。徳をもって人民掌握をした方が治世は長く続くのは明白です。
度重なる裏切り、それにより朝廷まで分断してしまったかつてない乱世をいち早く安定させる必要がありました。多くの人々の尊敬を集めている夢窓疎石を重んじることで人々の心をひきつけることが大事でした。また北条執権、後醍醐天皇とも密接な関係のあった夢窓疎石をそのまま重用することで、冷徹非道な人物ではないというアピールにもなりました。もちろん打算的な面ばかりではなく、尊氏が夢窓疎石に心酔していたのも事実だと思います。
足利尊氏×夢窓疎石がおこなった徳治事業
夢窓疎石が行った徳治事業、まずは安国寺の利生塔を国ごとに建立しました。全国六十州の国ごとに一寺一塔という大規模なもの。宗教的施設でありつつも足利政権の地方における拠点としての意味もありました。建立にあたり尊氏と夢窓疎石が掲げた理念は「敵味方を問わず戦死者の霊を供養するため」というものでした。
異例なのが、まだ足利軍と南朝との争いが収まっておらず激化していた最中でこの事業が始まっていること。安国寺・利生塔は地方の既存の寺を修復して代替されることが多く新たに建立されたものは少なかったようですがそれでも莫大な資金がかかったでしょうし、足利政権の地方浸透に役立った事業となりました。
画像引用元 天龍寺公式サイト
そしてもうひとつの大きな徳治事業が「天龍寺の建立」です。敵対していた後醍醐天皇が崩御するとすぐさま七日間の喪に服した尊氏。方針の違いで敵対してしまった足利尊氏と後醍醐天皇ではあったものの、足利尊氏は後醍醐天皇がかつて自分を取り立ててくれた恩を忘れたことはなかったのかもしれません。
天龍寺建立の監督に腹心の高師直を割り当て順調に工事が進められていましたが、禅宗を目の敵にしていた比叡山延暦寺や宗門の貴族たちによる度重なる妨害工作などがあり、また莫大な資金調達に頭を悩ませた尊氏は中国に貿易船を派遣。いわゆる「天龍寺船」プロジェクトを敢行しています。数々の苦難を乗り越えて5年かけてようやく完成した天龍寺。法会を執り行ったのはもちろん開山兼住持の夢窓疎石でした。
徳治事業がもたらす影響
天龍寺完工において、注目すべきは様々な妨害や資金調達などの難題を発足間もない幕府がクリアしたということ。幕府の威信をアピールする強い材料になりました。さらに国家的な規模で敵対した天皇を弔った人物は足利尊氏の他に一人もおらず、後醍醐天皇を弔うためという大義名分も逆賊のイメージを払拭するのに最適です。
もう一つ大きな影響として政権と夢窓疎石の日本化された禅との結びつきを強化する面もありました。政教分離が行われる前は政治と宗教とは密接な関係にありました。中世より前の時代の宗教は時代をリードする文化そのもの。文化的に朝廷や公家に劣る武家政権は独自の文化を築く必要があり、鎌倉幕府は日本に渡来した蘭渓道隆を元に禅宗にその役割をもたせます。既存の天台宗や真言宗は朝廷や公家との結びつきが強すぎたためそれに代わる新しい宗教が必要でした。その方式に続く形で室町幕府も夢窓疎石の禅宗を必要とし、文化を築くことに成功します。
夢窓疎石による足利尊氏の人物評
夢窓疎石が足利尊氏を評したものとして「尊氏は勇猛果敢な武人で、寛大な慈悲の心を持っていて、気前のいい人物である(要約)」というものがあります。夢窓疎石が尊氏に媚びへつらって評したわけではなく純粋に尊氏の美徳として讃えたものであると思われます。
尊氏が歴戦の戦いで勝利したのは事実であり、また敵であった後醍醐天皇を弔うための天龍寺建立、敵味方の区別なく弔うための利生塔の建立したことも事実、気前よく家臣に褒美をとらせたことも有名な話です。
この人物評は尊氏の側近らが喧伝し、新政権のPRとして利用しイメージ戦略にも一役買ったのではと推測されます。当代随一の高僧の人物評ですから重みもあります。
武力行使で政権を樹立した尊氏と、自分の信じる禅を奨めるため徳治事業で政権を支えた夢窓疎石。まさに理想的な補完関係であったといえるようです。