鎌倉時代の初め、法然は鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の修行をおこなっていました。1206年、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に後鳥羽上皇の女房であった松虫・鈴虫が法然の弟子であった安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が起きてしまいます。その結果、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり修行場であった草庵は荒廃してしまいました。江戸時代初期の1680年に知恩院第三十八世・萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって現在の伽藍の基礎が築かれたそうです。
庭園レポート
法然院の山門前にはガラス造形作家・西中千人さんによるガラスの枯山水“つながる”があります。リサイクルガラスを使用したもので石の代わりに築山の上に配置してあったり、石組みのように立ててあったりします。ガラスの透明感が周囲の木々の緑や鮮やかなコケの色ととても合っていて美しい空間です。石とはまた違った表情を感じることができ、モダンで洗練された雰囲気を醸し出しているのが素敵でした。
山門を入ると、両側に白い盛り砂が「百砂壇」があります。水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味しているそうです。方丈前には山に溶け込むような場所にある池泉回遊式の庭園があるそうなのですが見られるのは、4月1日~7日と11月18日~24日の伽藍内特別公開の期間のみとなっており私が訪れた8月は残念ながら見れませんでした。とはいえ、境内はたっぷりの美しい苔や木々で満ちており静謐な空気が漂っているのでいつ訪れても楽しめるかと思います。銀閣寺からも近いのでぜひ銀閣寺周辺の散策の際に訪れてみてほしいです。
◆拝観
拝観時間:午前6時から午後4時まで
◆拝観料
無料(参道のみ) 伽藍内特別公開は有料
◆拝観所要時間
20分ほど
◆アクセス
京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30番地
歴史コラム
当サイト(Niwasora)では幾度となく取り上げている「鎌倉新仏教」。こちらのコラムに鎌倉新仏教の成立について書いていますし、鎌倉新仏教の特長についてはこちらのコラムに書いていますのでご興味のある方はご一読ください。
鎌倉新仏教(浄土宗(法然)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、法華宗(日蓮))と法然はその中でも鎌倉新仏教の先駆け的な存在でした。なぜ法然は先駆け的存在となったのでしょうか?
それ以前の平安仏教は(⇒平安仏教についてはこちらに詳細を書いています)鎮護国家、貴族のためのものでしたが法然の浄土宗をはじめとした鎌倉新仏教は武士や民衆の間に浸透してブームとなっていきました。しかし鎌倉新仏教が大きなムーブメントとなるのは室町時代以降のことで鎌倉時代は実はそこまで大きな勢力ではありませんでした。
法然は岡山に生まれました。父は地域の治安を守る押領使と呼ばれる職についていましたが法然が9歳の時に暗殺!され、父の遺言によって出家しました。比叡山や奈良で学び修行を重ね、「知慧第一の法然」と称えられるほど優秀でした。この後、法然は専修念仏に目覚め独自の教えを人々に説くことになりますが、身分を問わずさまざまな人々がその教えを傾聴したのも法然が築き上げてきた「知慧第一の法然」と評された学識、人脈があったからこそ。
つまりポッと出の人材ではなく、ちゃんと比叡山や奈良で修行を積んだ下積みがあったからこそ…なんですね。他の宗派の始祖、栄西・道元・親鸞・一遍にしてもそうですが人の心を動かす人物っていうのはやはり並大抵の努力では成立しない下積み時代や修行を積んでいる。
これは現代に生きる私たちも同じことですよね。ポッと出の人がたまたま成功しちゃった!なんて例はそうそうなくて。楽しく簡単に大金を稼いでいるように見えるユーチューバーも見えないところで並々ならぬ努力や苦労や戦略的な思考を持っていたりするはずです。ひと昔前よりはいろんなメディアに参画しやすくなり、挑戦しやすい手法が増えているだけのことで。
人間は他人がやっていることは簡単に見積もってしまうようですし、世に公表されている出来上がっているものを訳知り顔で批判することはイージーなことですが、その背景にあるものを汲み取ったり慮る、思慮の深さを身に着けたいし常に忘れてはいけないなという説教じみたことを法然の逸話から思いました。