15の石と5つの石組。黄金比と遠近法を取り入れた枯山水・龍安寺

禅の庭

龍安寺は室町時代に、足利将軍家の管領だった細川勝元が臨済宗妙心寺派の義天玄承禅師を開山として創建しました。

◆庭園レポート
龍安寺といえば有名なのはなんといってもこの枯山水の石庭。作庭時期は不明、作庭者も不明ですが作庭の特徴から小堀遠州が作庭したのではともいわれています。でも小堀遠州だったのなら何かしらの文献が残っていそうなものなのに…とも思います。いずれにしろ作庭者は不明、というのが今のところの見解のようです。

龍安寺の石庭は15個の石による5つの石組で構成されていて、その構成方法に「黄金比」が採用されているのは有名です。さらに方丈は少し傾斜になっており遠近法も取り入れられています。

ちなみに龍安寺の石庭では15の石を同時に全て眺められない、ということでも有名です。その意味は色々と推察されていますが(15という数字が東洋学では完全を表し、その「完全さ」が見えないことで「不完全」に気づかせる禅の教えを象徴している説など)実際の作意はどうなんでしょうか。説としては面白いですよね。

ちなみに庭園史研究家の中田勝康先生の「全貌日本庭園」によると“創建時は“土塀の背後に見えた京都の山並み、自然界と塀の内側にある人口の造形が好対照のため人工的な造形がその美しさを際立たせていた”とありました。
龍安寺の土塀はなたね油を混ぜた土で作られており白砂からの照り返し防止や、雨風への耐久性があります。さらにこの土塀があることでモノクロの石庭がより引き立させる重要な役割も担っています。

この土塀があることで枯山水が際立つし、この土塀の持つ枯淡の美~!!たまらなかったです。土塀は外側からも眺められるので近くで見てみることをおススメします!


◆拝観
3月1日~11月30日 8:00~17:00
12月1日~2月末日 8:30~16:30

◆拝観料
500円

◆所要時間
20分程

◆アクセス
京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13 ⇒地図
JR京都駅から市バス 50番系統 立命館大学前下車 徒歩7分
京福電鉄 龍安寺駅下車 徒歩7分


◆歴史のこばなし
龍安寺の創建に細川勝元が関わっていたのを知らなくて「!!」となりました。
細川勝元といえば言わずと知れた「応仁の乱」の東軍の総大将です。室町幕府崩壊のきっかけ、戦国時代への入り口へとなった応仁の乱については長すぎるので割愛しますがとにかく、政治を放棄しつつあった足利義政を間に挟み、細川勝元と山名宗全の勢力争いに全国の諸大名や豪族を巻き込んだものです。

応仁の乱の原因のひとり・細川勝元

そもそも「管領かんれい」ってなに?ということですが、こちらで「関東管領」については書いているのですがここでは京都の管領職について。

初代将軍・足利尊氏を補佐していた執事職がもともとあった管領職と統合されたようです。足利尊氏の時の執事では高師直こうもろなおなどが有名です。鎌倉時代から足利家に仕えていた高氏・仁木氏・細川氏が執事として登用されていました。その後、執事同士による勢力争いなどがあり失脚する家などもでてきます。

斯波氏しばし・畠山氏・細川氏の三管領体制が整うのは三代将軍、足利義満の時代。足利義満は足利家と同じ源氏の流れを汲む、この斯波氏・畠山氏・細川氏の三家のみを管領とするという改革を行いました。足利家を頂点とし、その流れを汲む家で固めることで将軍家のさらなる強化を図ったものです。

金閣寺を作ったことで有名 足利義満

10歳で家督を継ぎ将軍となった義満でしたが、もちろんそんな幼少の身では何もできず管領の細川頼之が幕政を支えていました
課税権、京都市中の警察権を幕府の権限として確立するなど重要な事柄が細川頼之の執政期に実現しています。が、周囲の諸大名の協力を得られず政治的に孤立した細川頼之は強硬な政策をとり、管領職を下ろされます。

↓結構がんばったのに孤独な政治家 細川頼之

それと入れ替わりに足利義満が政治の表舞台へ。細川頼之の政権運営を間近で見ていた10代の義満は、細川頼之の政策の一部分を引き継ぎつつも「反面教師」として三管領家の制定をしたのかもしれません。

細川頼之が細川家七代目の当主で、細川勝元は11代目当主となります。この頼之の系譜の細川家は「細川京兆家ほそかわけいちょうけ」と呼ばれ管領職は細川京兆家が世襲制で継いでいきます。戦国時代に活躍する、細川藤孝・細川忠興親子の細川家は「和泉守護細川家」で本家と分家の関係でした。ややこしいですよね…。

ikeda

ikeda

日本庭園(主に古庭園)と歴史が好きな管理人が日本庭園の紹介と歴史コラムをと書いています。京都芸術大学大学院環境デザイン領域日本庭園分野を修了。書いた論文を当サイト内でも公開しています。

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