慶長6年(1601)徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校としました。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許したそうです。また孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版または圓光寺版と称されました。
◆庭園レポート
まず、境内に入ると「奔龍庭」と名付けられた枯山水があります。東福寺の龍吟庵の重森三玲の黒雲と龍の庭を彷彿とさせる、雲海と雲海を登っていく龍を表現した枯山水です。
もう一つのみどころ、「十牛之庭」は山々を取り込んだおおらかな印象の庭園。眩い新緑がたっぷり!広すぎず、いいサイズ感の回遊式庭園でほんとちょうどいいあんばい。庭の奥の竹林は円山応挙がよく訪れたことで有名だそうです。境内山上に登ると、開基・徳川家康公を祀った東照宮もありました。
◆拝観
年中無休 9:00~17:00
◆拝観料
500円
◆所要時間
20分ほど
◆アクセス
京都市左京区一乗寺小谷町 13 地図
市バス 5系統 一乗寺下り松下車 徒歩10分
叡山電鉄/叡山線 一乗寺下車 徒歩15分
◆歴史のこばなし
下野足利学校とは現在の栃木県足利市にあった、平安時代初期に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関です。室町時代の前期に衰退していたのを1432年、上杉憲実が足利の領主になって再興しました。
室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であったそうです。上杉憲実は足利学校は3か条の規定を定め、教えるべき学問は三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであるとし、教員は禅僧などの僧侶であったものの教育内容から仏教色を排したところに特徴があります。
教育の中心は儒学でしたが、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えていたそうです。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということもあったそうです。火災などにより一時的に衰退しますが、北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後は、関東の新領主・徳川家康が保護しました。