孟宗竹の涼やかな竹の庭、鎌倉公方ゆかりの報国寺

報国寺は1334年(建武元年)天岸慧広の開山に創建された臨済宗建長寺派の寺院です。開基は足利家時(あの足利尊氏の祖父)です。室町幕府を立てた足利尊氏は関東を治めるのに息子、基氏を鎌倉公方に据えました。鎌倉では九十年にわたって栄えましたが永享の乱で破れ、四代鎌倉公方持氏は瑞泉寺塔頭の永安寺において、嫡子である義久はわずか10歳で報国寺で自害します。

◆庭園レポート
報国寺は境内に入ってすぐ、アプローチに沿うように作られた長細い枯山水庭園があります。苔と石で構成されており白砂と苔の対比、築山のなめらかな曲線が美しいです。

約2千本の孟宗竹が植わった、竹の庭はサラサラと竹の葉の音が心地よい清涼感のある庭園。竹林の中を散策できます。ただ、さすが人気のお寺なだけあって観光客もとても多いので心静かに楽しむという雰囲気ではないかもしれません…。※2020年の現在はさすがに静かでしょうけど。

竹林の裏手には鎌倉独特のお墓「やぐら」が見えます。報国寺のやぐらは前述の足利家時と足利義久(四代鎌倉公方、持氏の嫡男)のものです。

枯山水庭園もあります。写真を撮ったはずなのに見当たらないので公式サイトから引用しています。白砂が目にまぶしい枯山水庭園です。

画像引用元 報国寺


◆拝観
9:00~16:00
年末年始 12/29~1/3 は拝観休止

◆拝観料
300円

◆見学所要時間
40分ほど

◆アクセス
鎌倉市浄明寺2丁目7番4 ⇒地図
JR鎌倉駅よりバスで12分


◆歴史のこばなし

足利尊氏が関東の抑えのために鎌倉公方を設置したのですが、なぜその鎌倉公方は滅亡してしまったのかについて。
こちらの南北朝が成立するに至ったことを書いたこばなしでも書いていますが、足利尊氏は元々は鎌倉幕府に属していた武士です。鎌倉幕府に反旗を翻し、後醍醐天皇と共謀して北条高時を滅ぼし、鎌倉幕府を滅亡へ。その後、ともに鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇とも対立。一時期は新田義貞をはじめとする後醍醐天皇の勢力に九州まで追いやられますがなんとか京都に返り咲き、後醍醐天皇の軍を打ち破って室町幕府を京都に樹立します。

政治の中枢である京都は尊氏とその側近で固めておかないと、いつまた天皇を中心とした反乱軍が勃発するかわかりません。しかし鎌倉には鎌倉幕府が滅亡したとはいえ鎌倉幕府の遺臣や、北条高時の子孫など反乱分子が残っています。新しい幕府は反体勢力を倒した上に成り立っています。倒した反対勢力は抑え込んでおかないといけません。

そのために尊氏は鎌倉に「鎌倉公方(かまくらくぼう)」を設置します。尊氏は四男・足利基氏にその職務を任せます。といってもまだ幼少であったので実際の采配は、補佐役の斯波家長(しばいえなが)と上杉憲顕(うえすぎのりあき)に任されます。ちなみにこの上杉憲顕は足利尊氏のいとこです。

将軍を補佐する役職を「管領(かんれい)」といいます。京都の将軍家(本家)を補佐していた管領家は斯波氏・細川氏・畠山氏
鎌倉の将軍家(分家)を補佐の役職は「関東管領」と呼ばれました。関東管領は、斯波・上杉・宇都宮・畠山ややこしいのでここでは、関東管領は最初は上杉氏だけではなかったということを覚えておけばいいかと。

関東管領は鎌倉公方・足利基氏の補佐役として関東十か国を支配。ここでまたややこしいのですが、足利尊氏とその側近・高師直(こうもろなお)と実弟・足利直義(ただよし)の内紛が勃発(=観応の擾乱かんおうのじょうらん)。この時、上杉憲顕は尊氏に味方せず直義側についたので、戦に勝った尊氏に信濃に追放されてしまいます。

しかし足利尊氏の死後、大人になった足利基氏が上杉憲顕を「越後守護」に任命し、復帰させます。さらに築城も許し、これが越後上杉家の発祥となります。他の管領家はクビになり、関東管領は上杉家の世襲制となります。
あの上杉謙信はこの上杉家に仕える長尾家に生まれ、のちの関東管領・上杉憲房の養子となり関東管領の職も継いでいます。室町幕府が織田信長によって滅亡させられると関東管領職もなくなったので上杉謙信は最後の関東管領でもありました。)

やがて室町幕府の4代将軍・足利義持は、関東も関東公方を廃止して京都から直接支配しようとします。そのことで鎌倉公方(分家)と室町幕府(本家)に亀裂が入ります。そうこうしているうちに将軍・足利義持が死去。足利義持には実子がいなかったので、誰に継がせるかということでひと悶着。鎌倉公方であった足利持氏は自分も将軍になれるのでは、と野心を抱きます
が、神託(くじ)によって室町将軍は足利義持の弟であって出家していた兄・足利義教が就任することに。それが面白くなかったし、そもそも足利義持に関東支配権をよこせと言われたことも気に入らなかった鎌倉公方・足利持氏は室町幕府に反抗的な態度をとります。反抗的な態度を繰り返す鎌倉公方に、怒りっぽいので有名な足利義教が鎌倉公方の征伐を命じます。この時の関東管領・上杉憲実はすでに京都の足利義教と通じており、鎌倉公方を見捨てて征伐軍に加わります。

追い詰められた鎌倉公方・足利持氏は永安寺で、その嫡子の義久は今回ご紹介した報国寺で自害することに…。
その後も鎌倉府は存続しますが上杉家との対立は続き、鎌倉に入ることを許されず古河や堀越に所在していたことから古河公方や堀越公方とも呼ばれました。

とにかく室町時代の関東は、鎌倉府、山内上杉家、扇谷上杉家、諸豪族たちが常に争っていて、ずっとしっちゃかめっちゃかな印象です。そこに現れたのが今川範忠を討ち取った伊勢宗瑞(北条早雲)。戦国北条家の始祖ですね。ややこしいですが、鎌倉幕府の執権・北条氏とは一切関係ないです。そしていよいよ時代は下剋上・戦国時代へ突入します。

なぜ、北条早雲が「下剋上の代名詞」のように語られているかというと、当時の国をめぐる争いは大名家vs大名家でした。そんな時代に、一介の雇われの武将(今川家の家臣だった)が国を奪うことができたからです。まさに下剋上。

とにかくごちゃごちゃしている室町時代の関東平野のいざこざ…。でも面白いですよね。