武家に支持された禅宗

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禅の修行は深山幽谷の大自然の中でおこなうことを理想としています。やむをえず室内やまちなかで修行する時は理想とする大自然を再現する必要がありました。そのため禅寺では水墨山水画や枯山水庭園が必要とされ、必然的に禅寺で枯山水庭園が発展していきました。

「禅宗」が室町時代になぜ、大きな発展・広がりを見せたのかについて。
後醍醐天皇が諸国の武将に鎌倉幕府の倒幕を呼びかけ挙兵を促したことにより、「元弘の変」が勃発しました。これにより鎌倉幕府は滅亡します。天皇による“建武の新政”がはじまったのですが、内乱状態は収まらず結局は足利尊氏が権力をつかみ「建武式目」を定め、室町幕府が成立しました。
尊氏は全国六十州の国ごとに一寺一塔の建立を発願。戦没者の慰霊のためという名目でしたが、実際は幕府の威光を知らしめるためのものでした。光厳上皇によって「安国寺・利生塔」と名付けられました。しかし「安国寺」のほとんどは鎌倉時代以来の禅院を改めたものでした。

五山十刹
禅宗の祖は臨済宗の栄西、曹洞宗の道元とされています。鎌倉・室町時代の禅宗の主流は臨済宗でした。栄西以来、蘭渓道隆や無学祖元などの中国から来た僧や日本からの留学僧が禅院をひらき、それらを本山として臨済宗の諸派が誕生。また、京・鎌倉から禅僧を招いて守護大名などの有力武士が各地に禅院を建立しました。先ほどの話にもあったように、室町幕府の時代にはそれを国ごとの安国寺として転用したわけです。さらに五山十刹の制によって諸国の禅院の格を定めました。京・鎌倉のそれぞれの五寺を最高の寺格とし、その下に十刹、さらにその下に諸国の寺院を置く体制でした。
以後、臨済宗諸派は幕府や守護大名と強い関わりを持ち、禅僧は政治顧問や外交官としても重用されました。その流れで、将軍や大名の保護を受けて禅宗文化が発達していったのです。漢詩や水墨画、書院造りの建物と庭園、能や華道・茶道などの芸能など、京風文化のほとんどは室町時代に誕生したものです。そしてそれは京・鎌倉に限らず、全国の守護大名に広がっていきました。