武家に支持された禅宗

禅宗(臨済宗・曹洞宗)は鎌倉中期に伝来し、浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗などとともに鎌倉新仏教として世の中に広まります。⇒鎌倉新仏教についてはこちらの歴史コラムをお読みください。
禅の修行は深山幽谷の大自然の中でおこなうことを理想としています。やむをえず室内や街中で修行する時は理想とする大自然を再現する必要がありました。
そのため禅寺では水墨山水画や枯山水庭園が必要とされ、必然的に禅寺で枯山水庭園が発展していきました。

◆鎌倉幕府と禅宗
鎌倉幕府いうのは、簡単に言うとそれまでの公家の既得権益に対抗して生まれた源頼朝(武士)を中心とした組織でした。
公家と対立関係にあったため、公家と近しい関係の平安仏教(真言宗、天台宗)には近づかきませんでした。しかし幕府の祈祷を行ってもらうため、また民衆の心をつかむ徳治事業としてお抱えの寺院が必要でした。新興勢力同士であった鎌倉幕府と臨済宗は親和性が高かったのです。
臨済宗の始祖である栄西は最初、京都でその教えを広めようとしましたが平安仏教サイドから弾圧を受けるなどしていたので鎌倉幕府に庇護を求めます
北条政子(源頼朝の正室)が建立した寿福寺の住職になると、源頼朝・鎌倉幕府の庇護を受け京都に建仁寺を建立し、教えを広めました。

また禅宗が庇護を受けた理由として「武士の気風と合っていた」ことも大きいようです。念仏を唱えるだけで浄土へ行けるとした浄土宗や、阿弥陀仏の本願による救済を提唱した浄土真宗に比べ、禅は戒律的で自己の修行や鍛錬によって悟りの境地へ行くという姿勢が闘争的な武士の気風に合っていたようです。


◆室町幕府と禅宗
朝廷に権力を取り戻そうと後醍醐天皇が足利尊氏・新田義貞ら諸国の武士に命じて鎌倉幕府を攻めさせ、鎌倉幕府は滅亡します。
しかしその後、後醍醐天皇が掲げた建武の新政が武士の反感を買い、後醍醐天皇は足利尊氏に攻められ京都から奈良へと逃げます。こうして室町幕府が成立。
尊氏は全国六十州の国ごとに一寺一塔の建立を発願。戦没者の慰霊のためという名目でしたが、実際は幕府の威光を知らしめるためのものでもあったようです。光厳上皇によって「安国寺・利生塔」と名付けられました。しかし「安国寺」のほとんどは鎌倉時代以来の禅院を改めたものでした。この時の足利尊氏のブレーンとして活躍したのが夢窓疎石です。詳しくは足利尊氏と夢窓疎石をお読みください。

五山十刹(ゴザンジッセツ)とは
臨済宗の祖・栄西以来、蘭渓道隆や無学祖元などの中国から来た僧や日本からの留学僧が禅院をひらき、それらを本山として臨済宗の諸派が誕生します。
また、京・鎌倉から禅僧を招いて守護大名などの有力武士が各地に禅院を建立しました。室町将軍・足利義満の時代に五山十刹の制が定められ、諸国の禅院の格を定めました。京・鎌倉のそれぞれの五寺を最高の寺格とし、その下に十刹、さらにその下に諸国の寺院を置く体制でした。※五山十刹についてはこちらの歴史のこばなしで説明しています。


◆室町幕府以降の禅宗
以後、臨済宗は幕府や守護大名と強い関わりを持ち、禅僧は政治顧問や外交官としても重用されました。その流れで、将軍や大名の保護を受けて禅宗文化が発達していきます。
漢詩や水墨画、書院造りの建物と庭園、能や華道・茶道などの芸能など、京風文化のほとんどは室町時代に誕生したものです
そしてそれは京・鎌倉に限らず、全国に広がっていきました。