桃山時代の庭

室町期の地割や巧みな石組構成を引き継ぐと同時に、時代背景から、次第に豪華絢爛な様相を呈してきます。特に石組などは室町期の質実剛健さに加えて、華麗なまでの石組構成を見せるのが、桃山期の庭園の特徴だそうです。あくまでも華やかさがあり、この形態が次の江戸初期の庭園に引き継がれていきます。
時代は戦国時代、戦国武将や大名が庭園文化をリードし、城郭庭園が盛んに造られました。一方、茶の湯の発展とともに、茶庭(露地)という新たな庭園意匠が出現します。茶庭(露地)は、武士だけではなく、庶民の間にも普及していきます。この「露地」「内露地」は後の日本庭園に大きな影響を与えることになります。

そんな桃山時代の華やかな庭園の意匠は醍醐寺の三宝院庭園で見ることができます。朝鮮出兵の留守を預かる夫人たちのために豊臣秀吉が700本の桜を醍醐の山に植え、花見を開催しました。かの有名な醍醐の花見ですね。今後の花見のために秀吉自らが三宝院池泉庭の改造を思いつき自ら縄張りを行ったそうです。
書院前の池泉は東西に細長く、本堂の前に枯山水があります。池泉の西に鶴島亀島が配置され、土橋が架けられています。池泉の対岸には蓬莱石組が組まれています。さらにその隣には名石・藤戸石があります。この石は足利義政、細川管領の所蔵を経て織田信長が足利義昭の二條第(今の二条城とは別)へ献納したもの。その後秀吉の聚楽第にうつされ、そしてその後三宝院へ移されたとても由緒正しい石だそうです。
秀吉は庭の完成を見ずに死去しますが、作庭の工事はそのまま醍醐寺の座主、義演の指導の元で庭師の賢庭によって実に28年間にわたり継続されました。
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そして華やかな桃山時代の庭といえばもう一つ、二条城の庭園も。二条城は天下を制した徳川家康が京都滞在のために造営したお城です。当初秀吉が築いた聚楽第を移築して造営され池泉庭も造られたと考えられますが、現在の庭園は後水尾天皇の行幸のために改造を加えたものとされています。作庭者は「庭造りの名人」とまで言われた小堀遠州です。
庭園の改造にあたっては行幸御殿からの景観に留意して、北・東・南の三宝正面の構成になっています。南北に細長い池泉の中央には蓬莱島があります。豪華絢爛な徳川幕府の権威をこれでもか!と見せつけんばかりの華やかさです。
b6f51da7出典:retrip.jp