鎌倉時代の庭 石立僧の登場

平安時代=寝殿造り=浄土式庭園という図式が一般的ですが、鎌倉時代に入っても浄土式庭園は造られ続けています。

源頼朝は奥州・平泉の毛越寺を模した伽藍を建築させたのが永福寺です。永福寺の庭園も毛越寺の庭園と同様の浄土式庭園でした。鎌倉時代に入っても続々と作られていた浄土式庭園。

では平安時代の浄土式庭園と鎌倉時代の浄土式庭園の違いはあるのでしょうか。

一言でいうと、造園のプロが登場したことが庭園史における鎌倉時代の大きな変化です。鎌倉初期に書かれた日本最古の作庭書「作庭記(著者は橘俊綱(諸説あり)」にみられるように、庭づくりの思想と技の体系化がおこなわれています。

そして石立僧(作庭技術に特化した僧)の出現。

山水河原者と呼ばれる作庭を生業とした技能集団、造園のプロチームが形成されていったこと。

鎌倉時代に中国から本格的に禅が伝わると日本庭園も禅の影響を大きく受けるようになります。中国南宗からの渡来僧、蘭渓道隆は臨済禅を日本にもたらし、鎌倉の建長寺を開きました。その蘭渓道隆が日本の庭に「龍門瀑」という滝の様式をもたらしたと言われています。

龍門瀑とは、中国の故事にある「登龍門」の由来である鯉が、三段の滝を登って龍に化す様を現している。登竜門(鯉が死を賭してまで龍になるべく努力する様子)にならって、修行僧が悟るまで、努力をしなければならないことを日本庭園の形で教えています。

蘭渓道隆は建長寺を開いたあと中国のスパイと疑われ、甲府にある東光寺に身を潜めました。東光寺には蘭渓道隆作と言われる庭園が今も残っています。非常に躍動感のある石組だそうです。

この日本に輸入された”龍門瀑”を庭の重要なテーマとして定着させたのが夢窓疎石でした。石立僧の最たる人物といえば夢窓疎石をおいてほかにありません。

石立僧の「石立」石を立てる、とは作庭のことを指しています。平安後期から鎌倉初期にかけて作庭指南を得意とする石立僧が出現しました。特に仁和寺系の僧の活躍が目覚ましかったようです。日本庭園が仏教思想を基本としていたこと、さらに作庭をしたのは石立僧という子も相まって庭園に仏教色がますます色濃くなっていきます。

夢窓疎石の代表作といえば西芳寺と天龍寺です。

ともに優美な池泉を中央に配置しています。夢窓疎石は「十景と十境による空間構成」をもって作庭しました。十の題材の景と雰囲気の異なる十の境域を全体に配置し、それを周遊しながら鑑賞する庭園を構想しました。



苔寺という別名で有名な西芳寺