神々の島を表現した石庭と小堀遠州作・池泉庭園の円通院

円通院(えんつういん)は、臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の寺院です。日本三景のひとつ宮城県松島町にあります。

◆庭園レポート
円通院には二つの庭園があります。石庭「天の庭」と「地の庭」。天の庭は須弥山を中心に松島湾に実在する七福神の島を表現しているそうです。松島湾を白砂、周囲の山々を苔の築山で表現。


地の庭は人生を表しているそうです。生まれたままの割肌からたたかれ、磨かれ成長する様を石の三種類の仕上げで表現しています。天と地の間には橋がかかっており、天と地を結ぶ懸け橋となっています。

訪れたのが春先だったのでまだ木々は落葉中で苔も緑に色づいていませんでした。もりもりと生命の迸りを感じる勢いのある緑の季節もいいですが淡い色合いの落葉の時期も言いようのない枯淡の美があって美しかったです。

もう一つの庭園は伊達藩江戸屋敷にあった小堀遠州作の池泉庭園を移築したと伝わる池泉庭園。

心字をかたどった池には蓮の花が咲くそうです。西側には深山幽谷の中に仏の姿を表現した石組があります。水芭蕉が咲いていました。関西では見ることのない花なのでうれしかったです。荒々しい石組の中に可憐に立つ姿にキュンとなりますね。


◆拝観
年中無休

◆拝観料
300円

◆見学所要時間
40分ほど

◆アクセス
宮城県松島町松島字町内67 ⇒地図
JR松島海岸駅より徒歩5分東北本線
JR松島駅より徒歩20分


◆歴史のこばなし
今までこのサイトではいくつかの小堀遠州の作のお庭を紹介してきましたが小堀遠州の人となりについてあまりきちんと書いていないことに気付きました(上田宗箇についてはしつこいくらい書いていますが…)。

なんでかというと書くことが多すぎるからです…。大名であり茶人であり建築家であり作庭家であり書にも和歌にも優れていて、特筆すべき点が多すぎる。現代にまで影響を与えているその偉大なスタイルをまとめるのが難しいとずっと思っていたんです(今も思っています)。

小堀遠州は一言でいうと英才教育を受けた天才。父・小堀正次は息子・作介(のちの小堀遠州)に英才教育をほどこしました。(父は作介が少年のころ、豊臣秀長※秀吉の実弟※の家老を務めています。その縁で作介は秀長の小姓となり、秀長に茶の湯の指南にきた千利休と会います。

↑晩年の小堀遠州の肖像画。この洒脱な感じ…!

作介は利休に心酔しますが、千利休は作介の出会いから3年後に豊臣秀吉と仲違いし切腹を命じられ死去してしまいます。その後、千利休の弟子であった古田織部の弟子となります。ひっそりとした静謐さの中に美を見出す利休の侘びさび、歪みや自然発生的な「動」の中に美を見出す古田織部の茶の湯、両方の影響を受けながら茶の湯の道を学びました。

↑茶の湯を大成させたことでおなじみの千利休


↑千利休の弟子で独特の茶碗を編み出した古田織部は織部焼のプロデュースも。

19歳の時に藤堂高虎の養女を妻に迎えます。藤堂高虎といえば築城の名手として名高いですね。藤堂高虎からも何らかの影響を受けたのでしょうか。29歳の時に実父・小堀正次が死去。政一(作介から改名)は父のあとを継ぎ、作事奉行に就任。駿府城の建築にかかわります。天守閣の見事な出来栄えが評判になり「諸太夫従五位下遠江守」という朝廷の称号と位をさずけられました。この時から「遠江守(とうとうみのかみ)」にちなんで遠州と呼ばれるようになりました。

↑加藤清正とならぶ築城の名手として名高い藤堂高虎。

まず作事奉行(建築)でその名をはせた遠州。その後も「名古屋城の天守閣」の建築の監督をするなど、作事奉行として大活躍。その後、京都南禅寺の庭園や岡山の頼久寺を手掛け、作庭のセンスも高く評価され、仙洞御所、圓徳院、滋賀院門跡、龍安寺、二条城二の丸庭園など様々な庭園を作庭しています。40歳の頃、徳川将軍家・三代家光の茶道指南役となりました。千利休は豊臣秀吉の茶道指南役、師匠の古田織部は徳川秀忠の茶道指南役と務めたので同じ道を歩んだことになります。

しかし、千利休は豊臣秀吉に各諸将への多大な影響力を恐れられて切腹を命じられ非業の死を遂げ、古田織部は徳川家と敵対する豊臣家との内通を疑われ大阪夏の陣の後に切腹を命じられ非業の死を遂げています。そんな師の痛ましい死を見て感じるところがあったのかどうか…。

江戸初期の寛永文化の中心人物として後水尾天皇(後水尾天皇についてはこちらに詳しく書いています)の名前も、小堀遠州の名前もあがります。両名の間にどこまで親交があったのかはわかりませんが、一説には徳川幕府から愛顧を受けていたので小堀遠州は公家とはなるべく接触を避けていたようです。ですが、後水尾天皇の弟であった近衛信尋と懇意にしてたという書状もあり、そこまでシビアにはとらえていなかったのかも?徳川家vs豊臣家の天下分け目の戦いよりは、徳川幕府vs朝廷の関係は緊迫性はなかったようにも思いますし…。小堀遠州は45歳の時に伏見事業という重要なポストに就きました。

徳川幕府の指示によって小堀遠州は仙洞御所の作事を手掛けます。仙洞御所は後水尾天皇の隠居場所として造営されました。(造営開始時まだ後水尾天皇は現役続行中。なので造営は早く引退しろという圧のようなもので、幕府の嫌がらせと捉える向きもあります)

↑仙洞御所の庭園

古今和歌集に傾倒していた遠州は、和歌の世界観を茶道に取り入れます。今までの茶の湯とは一線を画したわかりやすく開放的で誰がみても美しい、装飾などに遊び心を出した「綺麗さび」と呼ばれる新たな茶道を確立しました。

遠州は400回もの茶会を開き大名や公家に限らず町人も招き、身分の区別なく茶の湯を楽しみました。その開放的なことも遠州流の特長です。父・正、利休と織部・二人の茶人、義父・藤堂高虎…。小堀遠州はメンターに恵まれた人であったとは思います。ですが、柔軟に物事をとらえた創造力と革新的な発想力は天性のものだったのではないかと思います。

千利休、古田織部、小堀作介その他の大名茶人がたくさん出てくる漫画といえば「へうげもの」。本当にわかりやすいし表現力がすごいので未読の方はぜひ!

小堀遠州の庭園はこちらでも紹介しています!
曼殊院
金地院
太閤山荘
滋賀院門跡
南禅寺
天授庵