前田利常×小堀遠州の十三窓の茶室が見れる太閤山荘

かつて本阿弥光悦が開いた芸術村があった洛北鷹峯東方(らくほくたかがみねとうほう)の地に構えられた山荘、太閤山荘は戦前に生糸で財をなした川村湖峯の本宅として建築された数奇屋建築です。使用されている木材から庭石に至るまで贅を尽くした造りで見所がたくさん。

茶室「擁翠亭(ようすいてい)」は、江戸時代前期、加賀藩士で京の彫金師であった後藤覚乗の屋敷に建てられた、日本一窓の多い草庵茶室。設計者は江戸時代の茶人・小堀遠州。小堀遠州に茶室の設計を依頼したのは加賀藩主・前田利常。この茶室には前田利常自身の好みが反映されていると考えられています。
茶室の閉鎖性と茶屋のような開放感が同時に存在し陰から陽へと劇的に様相を変える、遠州の開放的な美意識「綺麗寂び」を体現する茶室といえるそうです。文化的にも価値の高い擁翠亭の保存維持管理・調査研究を主な目的とし、再組立てが太閤山荘(現亭主・宮下玄覇氏)で執り行われ、保存会も発足しています。

◆庭園レポート
以前、太閤山荘を訪れた時は茶室・擁翠亭や庭園はまだ施工の途中で見れなかったので、再訪問。茶庭は京都の老舗造園会社・植芳造園がてがけています。


織部好みの中潜り(なかくぐり。茶庭の露地の内外の境に設けた門のこと)から、内露地へ。


もこもこと豊かな苔張りに飛び石が配され、玉石で作られた枯山水にかかる石橋をわたると日本一窓の多い十三窓の茶室、擁翠亭へと誘われます。

別名・十三窓席と呼ばれるこの茶室。小堀遠州の師匠である古田織部(千利休の弟子)も茶室に窓を多く採ることを好みましたが、小堀遠州も同じく多窓を好んだようです。この多窓構造により採光、通風、換気と機能性の高い茶室になっています。畳のすぐ際の小襖は閉めると光を遮ります。この小襖を開くことで一気に明るくなり開放的になり、陰から陽へ様相が激変します。
まるで違う世界にたどり着いたような印象の違いです。亭主の意のままに光をコントロールし、茶室内の演出をする舞台装置のような機能性の高さに驚きました。

↑画像はパンフレットより

元来、この茶室は擁翠園と呼ばれた池泉回遊式庭園内に造られたものであったので、水面を眺めるために低い位置に窓を配した可能性があるそうです。また高い位置にあけられた窓は庭の松を見上げるためのものだったかも、ということ。
ともに大名的趣味を反映しており、豪快な前田利常の好みが取り入れられていると解釈できるそうです。ちなみに玉石で作られた枯山水は、当時、窓から見えたであろう地水を再現しているそうです。

高い機能性と美しさに驚くばかりの擁翠亭ですが、訪問した時期が夏前だったので蚊の襲撃に見舞われました。露地と茶室の見学の際は、虫除けクリームなどを塗っていくことをオススメします。


◆見学
擁翠亭の見学は要予約・要確認(電話問合またはメール)

◆所要時間
1時間ほど(解説・お抹茶席付き)

◆アクセス
〒603-8478 京都市北区大宮釈迦谷10-37 ⇒地図

地下鉄烏丸線北大路駅・北大路バスターミナルより市バス北1系統玄琢行き
二条駅より市バス6号系統玄琢行き
四条大宮より市バス6号系統玄琢行き
釈迦谷口バス停下車、徒歩8分
地下鉄烏丸線北大路駅・北山駅よりタクシーで8分


◆歴史のこばなし
前田家・三代目、前田利常。戦国大名として有名な前田利家の4男(側室の子)で二代目・前田利長の年の離れた弟にあたります。前田利家の死後、家督を継いだ前田利長には男子ができなかったので利常を養子とし、11歳の時に前田家の家督を継ぎました。利長と利常の関係は非常に良好でまるで本当の親子のようであったとも。

前田利常の肖像画

当時の前田家は将軍徳川家に継ぐ、大大名で大変、力のある家でした。徳川家康は大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした後も、反乱分子に目を光らせていました。前田家は元々が豊臣家と懇意な間柄であったし、もし前田家が扇動すれば追随するであろう大名家もまだ多数いた時代。

とはいえ、前田家と徳川家は表面的には昵懇な間柄でした。前田利常の妻は二代将軍・秀忠の娘の珠姫。これは前田家には大きな意味がありました。(でも徳川家康は豊臣秀頼にも秀忠の娘であり家康の孫であった千姫を嫁がせていたけど、豊臣家を取り潰しているので政略結婚が意味をなさなくなれば反故にされる場合もありますが)

家康が臨終の際に、枕元へ前田利常を呼びたてて「そち(前田家)を殺すように将軍(秀忠)に命じたが将軍はなにもしなかった。だから将軍への恩義は忘れるな」と伝えたという逸話があります。本当のことなのかどうかは別として、あれだけの大名家を改易させた徳川幕府ですから前田家の改易を検討していたとしても不思議はありません。

徳川家から嫌疑の疑いをかけられるたびに平身低頭、申し開きをしまくった前田利常ですが、「そもそも嫌疑をかけられないようにしよう」と策を打ち出します。それは「生かしておいても何の恐れもないただのバカボンボンですよ」というポーズをとることでした。

鼻毛を伸ばしまくってアホ面にしたり、病気で出仕を休んだ時に徳川家の家臣にイヤミを言われた時はみんなの前でキン●マをさらして「ここが痛~くて痛くてかなわなったので!」と言い放ったり、「江戸城内での立小便禁止。したものは罰金」と江戸城内に立てられた看板にむかって「罰金が怖くて立ション我慢するわけねえだろ」といいながら立ちションしたりとなかなかのアホっぷりを演じたそうです。

そんな前田利常ですが領内では名君と名高かったようです。領民の買い物は領内で作られた作物(服や工芸品・農作物)限定にすることを命じ、地元に市場を開き他国へ金銭が流れることを止め、領内の経済循環をよくしました。今でいう地産地消ですね。

地元にきちんとした市場を作ったうえに藩が細工所をもうけて職人の育成支援をしました。京都の彫金師の後藤覚乗や蒔絵師の清水九兵衛など、名工を多く召し抱え美術工芸を振興。そのため金沢を中心に前田家の領内では工芸や織物が発達して、地場産業として栄えることになったのです。

彫金師の後藤覚乗に常に敬意を払っており、その気持ちの表れが後藤覚乗邸への「擁翠亭」の建設だったのでしょう。その費用は現代の価値に換算すると庭園を含めて30億円はくだらないといわれているので、すごいことですよね。
金沢の歴代藩主は工芸品の文化振興を推奨しましたが、その基盤は前田利常が創ったものだったのです。

画像引用元 加賀友禅

九谷焼や加賀友禅、漆器や金箔など金沢の工芸品の名高さは現代でもやしっかりと受け継がれていますよね。
「擁翠亭」を訪れた時は、前田利常のそんな人柄を思い起こしながら見るとまた面白いかもしれませんよ。