うるわしの水池・南禅院と端正で美しい方丈庭園

禅の庭

南禅寺は、京都市左京区にある臨済宗南禅寺派大本山の寺院。亀山上皇は1289年40歳の時に出家して法皇となりました。寺号は正しくは太平興国南禅禅寺といいます。

◆庭園レポート
南禅院には夢窓疎石の作と伝わる池泉回遊庭園があります。西芳寺に趣が似ています。池の周りを深い樹林で囲まれているので幽玄さ漂う〜。木々の枝の間から池を観ると水鏡が美しくて息が止まるかと思いました。

ちなみに京都で唯一の鎌倉時代に作庭されたお庭だそうです。夢窓疎石は鎌倉時代後期~室町時代初期に活躍した禅宗の僧侶で、南禅寺に住持したのが1325年と鎌倉時代後期のことなので、鎌倉時代後期に作庭されたっぽいのかな…?

方丈庭園は小堀遠州作と伝わるもの。石組と樹木を一ヶ所にまとめ白砂の広い余白があるので、のびのびゆったりとした印象。小堀遠州の茶道のスタイルはきれいさびと評されるように端正で美しいのですが作庭にもその美学が反映されています。
巨大な石を横に寝かして配置する手法は、須弥山・蓬莱山などの日本庭園に用いられる仏教的世界観の庭園ではなく、俗に「虎の子渡し」の庭と呼ばれています。石で虎を表し、白砂は河を表しています。虎が子を従えて河を渡る方法から思案する大切さを示しているともいわれています。
龍安寺の方丈庭園も「虎の子渡しの庭」の呼び名で有名です。この「虎の子わたし」とは、虎が三匹の子を生むと一匹がヒョウで他の子を食おうとするので、川を渡るときに親はまずヒョウを対岸に渡し、次いで他の一匹を渡してからヒョウを連れ帰り、次に残る一匹を渡し、最後にヒョウを渡したという中国の故事で、虎が子を連れて川を渡るときのように苦心して生計をやりくりすることの例えなんだとか。


◆拝観
8:40~17:00 / 12月~2月 8:40~16:30

◆拝観料
南禅院 300円 / 方丈庭園 500円

◆所要時間
それぞれ20分ほど

◆アクセス
京都府京都市左京区南禅寺福地町 ⇒地図
地下鉄東西線蹴上駅から徒歩で10分


◆歴史のこばなし
南禅寺といえば「五山」の別格とされているお寺です。「五山十刹の制」とは室町時代、足利義満が正式決定した制度のことで、臨済宗の寺院を組織化しランク付けしたものです。室町幕府が保護し、国家の統制下に置きました。
京都の「南禅寺を別格」として、その下に

京都五山 1.天龍寺 2.相国寺 3.建仁寺 4.東福寺 5.万寿寺
鎌倉五山 1.建長寺 2.円覚寺 3.寿福寺 4.浄智寺 5.浄妙寺

が格付けされています。

「そもそも五山ってなんなの?」という疑問がありますよね。五山というのは中国で行われていた寺院の組織体系を真似たもので、臨済宗の第五位までに君臨する五つの寺院を制定したことから始まります。この制度は鎌倉幕府の時代から行われていました。

室町幕府に入ると足利尊氏や次の将軍足利義詮の手によって五山の寺院は追加されたり省かれたりとコロコロと変わりました。この背景にはまだまだ幕府は盤石ではなく、南朝・北朝とが争っていて各寺院への忖度をせざると得なかったため、という説があります。

足利義満が日明貿易で財を成し、北朝と南朝を統一させ幕府の基盤が安定してきました。そんな折、絶海中津などの僧の意見を聞き入れて五山の大改革を実施。南禅寺を別格として、京都と鎌倉それぞれに五山を制定しました。これにより制定されたお寺の寺格がコロコロ変わることはなくなり、現在までそのままです。

では、なぜ南禅寺は「別格」扱いなのか?という点について。
足利義満が自身の邸宅「花の御所」の隣に建立させた相国寺。義満にとっては非常に思い入れのある寺院です。どうにかこの相国寺を五山入りさせたい、というのが義満の目論見でした。ところが、相国寺を含めると五山に制定される京都の寺院が6つになってしまうので、勅願寺(天皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと)であった南禅寺を「別格」扱いにしたのでした。

相国寺を五山に入れたことで、臨済宗系の寺院を支配しやすくなるというメリットもあったようです。そんな、義満の政治的背景があったのですね。

ikeda

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日本庭園(特に古庭園)と歴史が好き。歴史のアレコレを調べるのと庭巡りがライフワークの管理人が発信するブログです。

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