三千院は伝教大師最澄が比叡山、東塔南谷の山梨の大木の下に一宇を構えたことに始まります。その後、慈覚大師円仁に引き継がれ平安後期以降、皇子皇族が住持する宮門跡となりました。寺地は時代の流れの中で、比叡山内から近江坂本、そして洛中を幾度か移転し、現在の場所に落ち着いたそうです。
◆庭園レポート
客殿前の鑑賞池泉庭園「聚碧園」は金森宗和の修築によるものです。金森宗和の茶の湯は”姫宗和”と呼ばれたようですが庭園もどこか優美。エレガントさを感じます。華美さはありませんが細やかな美しさがありますメインの樹木が紅葉なので訪れた冬のさなかでは落葉中でしたがこれもまた味わいがあり、いい~。
もう一つのお庭「有清園」は広々とした池泉回遊式庭園で苔が青々とした空間。杉やヒノキなど大きな木が立ち並びさながら森の中にいるかのよう。池は渓谷式に水を流して池泉にそそぐようになっています。
わらべ地蔵もきれいに苔むして苔と同化していてなんともいえない風情があります。ほっこりってこういうこと。
◆拝観
無休
3月~12月7日 8:30~17:00
12月8日~2月 9:00~16:30
◆拝観料
700円
◆所要時間
1時間ほど
◆アクセス
京都市左京区大原来迎院町540 地図
京都駅から京都バス17、18系統「大原」下車
◆歴史のこばなし
自身の茶の湯を”姫宗和”と呼称された金森宗和ですが、その祖父も父上もなかなかの風流人でした。祖父の金森長近は、時の人に気に入られる人物であったようです。
織田信長に仕え、本能寺の変のあとは柴田勝家に仕え、柴田が豊臣秀吉に敗れた後は剃髪して降伏します。禅宗と茶道に造詣が深かったので豊臣秀吉の御伽集となり古田織部とも親交がありました。秀吉の死後、関ヶ原では東軍に味方し家康に飛騨の守に推挙され高山藩の初代藩主となります。
長近の養子であった可重は養父であった長近と同じく茶道に精通し、古田織部に師事し、徳川秀忠の茶道指南役も務めました。その可重の長男が金森宗和。祖父や父と同じく茶道に秀でていました。大阪の陣で徳川方についた父・可重を非難したことで、勘当されてしまいそれ以降は武人としてではなく茶人として活躍し、古田織部や小堀遠州の作風を取り入れつつもやわらかで優美な茶風を確立しました。
金森宗和の作庭の庭は岐阜県の「禅昌寺」や「清泰寺庭園」があります。