南宗寺は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院です。古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されています。
◆庭園レポート
古田織部が作庭したと伝わる堺の南宗寺に。そう言い伝えられているだけで確実に作ったかどうかは不明とのことです。枯山水庭園はこじんまりとしておりますが、砂紋の意匠がステキでした。石組みはちょっとよく細かいところまでは見えなかったですが…。
南宗寺には茶臼山の激戦に敗れた徳川家康が駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ堺まで落ち延びるも駕籠を開けると既に事切れていて、ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬したとの言い伝えが有ります。
墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文が残っています。南宗寺にはかつて東照宮があったそうなんですが、現在の墓標は水戸徳川家家老裔の三木啓次郎が昭和42年に再建したものだそう。碑石の銘には「東照宮 徳川家康墓」とあります。
家康のお墓も見れますが日光東照宮を模したお墓で、その一帯の屋根瓦だけ葵紋が施してありました。
家康が夏の陣で亡くなっていたのかどうか真相はともかく、大阪夏の陣の話がここに繋がっていると思うと面白かったです。仏殿の天井の、狩野派が描いた睨み龍もかっこよかったです。
◆拝観時間
9:00~16:00
◆拝観料
大人400円
◆所要時間
30分ほど
◆アクセス
堺市堺区南旅篭町東3-1-2 地図
阪堺線「御陵前駅」下車
◆歴史のこばなし
古田織部(佐助)は織田信長に仕え、信長崩御の後は豊臣秀吉に仕えた戦国時代の武人です。
武人でありながら茶の湯や作庭への造詣も深く、千利休の高弟として利休七哲としても名を馳せています。千利休が秀吉に追放を言いわたされた際、見送りが禁じられていたにもかかわらず細川忠興とともに堂々と見送りに出た話は有名です。そして利休の死後、豊臣家の茶道筆頭になりました。
織部は千利休の「人と違うことをしなさい」という教えを忠実に実行し、利休の静謐さと対照的な動的で破格な美を確立させ、それを一つの流派に育て上げました。
職人や陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、自らは茶の湯のプロデューサーとして指導にあたりました。古田織部は関ヶ原の際、東軍につきそのまま徳川秀忠の茶の指南役として重宝されます。
しかし大阪夏の陣で、豊臣家との内通の嫌疑をかけられ切腹を命じられ「かくなる上は申し開きも見苦しい」といって切腹しました。
古田織部の弟子には小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、金森可重、本阿弥光悦など、名だたる文化人がいます。