平安時代中期、末法の世を迎えます。※末法とは…釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降の仏法衰退になる時代
日本国内はその頃、貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、また武士が台頭しつつあり治安の乱れも激しく民衆の不安は増大。相次ぐ飢饉や疫病により世の中は荒廃ムードが漂っていました。
このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり「この世の終わりだ!破滅だ!」というような焦燥が蔓延していました。この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していきました(末法思想)。
貴族たちは邸内に阿弥陀堂をまつり、やがて弥陀の世界を描いた浄土曼荼羅の図を地上に再現しようとして浄土式庭園に庭づくりへと移り変わりました。
その貴重な平安時代の浄土式庭園の遺構が平等院庭園です。別荘地だった平等院に浄土式庭園を築いたのは藤原道長の子、頼通でした。阿弥陀堂が完成したのは1053年。池泉の中島に建ち御堂と左右の翼楼が朱や緑青に塗られ天に舞い上がりそうな優美な姿を池泉に輝かせました。鳳凰堂という呼び名は江戸時代につけられたものです。
堂内には金箔の阿弥陀如来像が安置され、輝く浄土の世界が出現しました。阿弥陀堂は東に向かって建ち、池泉の対岸には小御所が建てられ、頼通はそこから池越しに阿弥陀如来を拝んでいたといわれています。現在の境内の広さは約2万平方メートルですが、頼通の時代はその7倍14万平方メートルあったそうです。ちょっと想像できないですね…。
また奥州平泉の毛越寺庭園も平安時代の浄土式庭園です。奥州平泉は、奥州平泉藤原氏4代の都でした。
毛越寺は2代目の本衡が建立し、3代目秀衡が完成させました。伽藍は全て火事で消失し、庭園遺構だけが残っています。東西に広がる池泉の東側に出島があり、池泉はゆるい曲線を描き優美な雰囲気を作り出します。
毛越寺庭園 出典
浄土式庭園の完全な姿は現在、残っていませんが、浄土式庭園に決定的な影響を与えたのが中国の敦煌にある「変相図」であると言われます。
「変相図」は仏典を説く説話的内容を絵画やレリーフに表現したもので、莫高窟220窟には「薬師浄土変」「阿弥陀浄土変」などの壁画があり、それらの絵の構成が浄土式庭園のモデルといえます。壁画中央には蓮池が描かれ、そこに阿弥陀様が結跏趺坐しており、その両脇には菩薩が達、その上を飛天や化仏が舞います。
蓮池の手前には舞を踊る舞台があり、菩薩があでやかに舞い、目を閉じれば天井から楽の音がきこえてくる。これこそ平安の貴族たちが夢見た、極楽浄土のイメージだったのでしょう。