建仁寺塔頭の寺院・霊源院は、鎌倉時代末期から室町時代にかけ、京都五山と鎌倉五山の禅僧たちによって栄えた漢文学・五山文学の最高峰寺院とされた寺院です。「建仁寺の学問面」の中核を担ったこの寺院から、室町時代の五山派を代表する学僧が数多く輩出さた由緒正しい寺院です。
庭園レポート
霊源院のお庭は2019年に中根庭園研究所さんによって新しくなりました。甘露庭と名付けられたお庭は、甘茶がたくさん植えられています。他にも多種な植栽が植えられていて四季の移ろいを堪能できるお庭。基本的に水平な石組みのお庭で柔らかでやさしいのですが、山を模した峻嶮な岩だけはググっと立っていて迫力があります。そのメリハリの妙も素敵です。仏陀釈尊の生誕から入滅、中国、日本へ仏教伝来のを庭で表現しています。
砂文の美しい流れ。五輪塔もいくつか据えられています。
特別公開時期が5月中旬なのでお天気が良ければ初夏の日差しにキラキラと輝く新緑が目にまぶしい。砂文に移る木々の影の美しさったら
!こちらにも小ぶりの五輪塔が。低めの築山と配置された石のバランスが水平的でとても柔らかくてやさしい気分になれます。
◆拝観
毎年5月中旬頃に特別拝観
◆拝観時間
歳時により異なる
◆見学所要時間
20分ほど
◆アクセス
京都市東山区大和大路四条下ル小松町594 霊源院 ⇒地図
歴史コラム
霊源院のお庭は仏教伝来も作庭のテーマのひとつになっていますが、日本に仏教が伝来したのは552年に百済の王より釈迦如来像と経典が贈られたことだとされます。初めて見るキラキラの仏像に欽明天皇は大変魅了されたそうで日本書紀に「仏の相貌、瑞厳し」と記されています。欽明天皇だけではなく当時の貴族たちも衝撃を受けたと思います。
欽明天皇は仏教の信仰の可否について臣下たちに問いました。その時、大反対の姿勢を示したのが物部尾輿と中臣鎌子。天皇は神の末裔であり神々を祀る一族、それなのによその国の神を崇めるなど言語道断、祟りになるぞ、と。
もちろん現代の私たちは仏は神じゃないことも、仏教は煩悩を断ち悟りを開くことを教義としているので神道とは全くの別物だと認識でききています。でもその当時は仏=神だと考えた物部たちによって推進派の蘇我との対立が激化。
両者引かず対立した状態のまま587年に用明天皇が崩御。政治的空白が生まれ、後継者争いを軍事力で解決しようと廃仏派の物部氏vs崇仏派の蘇我氏が戦ったのは有名です。この時、崇仏派の蘇我氏側についていたのがあの聖徳太子。この戦いでは崇仏派の蘇我氏が勝利し、その勝利のあかつきに聖徳太子は四天王寺を建立しました(四天王寺の庭園紹介はこちら)蘇我馬子は戦勝記念に法興寺(飛鳥寺)を建立。この頃から古墳の造営に代わり、寺院の建立が権威を示す政治的デモの役割となっていきます。
ちなみに廃仏派の急先鋒の物部氏ですが実は物部氏の領地から寺院の跡地が見つかっているそうです。民間レベルで信仰する分には物部氏も仏教を受け入れていたのかもしれません。国家仏教の採用をめぐる対立、仏教の「教主王従」(仏の教えが主であり王はその教えに従って政治をする)に反対だったのではと。それまでの大王は「神々に対する最高祭祀者」として政治をしてきたことから考えるとがらりと様相が変わります。「教主王従」になった例として「最高祭祀者」である推古天皇と「執政者」の位置についた聖徳太子という構図がわかりやすそうです。もちろん国家仏教として宗教の性質を求めることからの対立でもあったでしょうが執政の在り方もそこに混在してたとなるとより一層この対立に興味がでてきますね。