佳麗な芙蓉池と幽寂閑雅な心字池、2つの庭園がある等持院

臨済宗・天龍寺派、等持院は1341年に足利尊氏が夢窓疎石を開山に迎えて衣笠山の南麓に創建されました。のちに尊氏・義詮将軍の時代に幕府の地にあった等持寺も移されて、足利将軍家の菩提寺となりました。応仁の乱などの戦火に見舞われましたが、豊臣秀吉の命により豊臣秀頼が再建しました。足利十五代、230年余りの歴史を語る貴重な文化財を保有している由緒あるお寺です。

◆庭園レポート
等持院を拝観するとまず目に飛び込んできたのが、書院の真っ赤な毛せんの向こうに広がる石組みと刈り込みの豊かな空間。
芙蓉池は古い木立で区切られ、蓮の花の形をかたどった庭園に花木を配して石組みも変化に富んだ、風光明媚なお庭です。安土桃山時代の庭園とは違う、割と小さめの石のみで構成された石組みで佳麗さを感じさせます。う~ん、この品の良さたるや!

一方、北庭の東には心字池(草書体の心の文字をかたどった池のことです)があり、物静かで奥深い景色をつくっています。さきほどの芙蓉池とはまた違う趣きがあり、心字池に映る木々の影の美しさを自分の目にも映しながら、幽寂閑雅なひとときを味わえる庭園です。


どちらも夢窓疎石の作と伝えられています。さすがとしか言いようがないというか、庭園以外のあらゆる事でも思いますが劫を経て、現代に生きる我々の心に響いてくるって先人に感謝と敬意しかないですよ、ほんと…。


◆拝観
9:00~17:00

◆拝観料
500円

◆所要時間
30分ほど

◆アクセス
京都市北区等持院北町63 ⇒地図
京福電車等持院駅下車 徒歩約10分


◆歴史のこばなし
等持院は足利将軍家の菩提寺なのですが、足利将軍って初代の尊氏から最後の義昭まで個性が強い人が多いというか(まあ将軍なので強い個性がなければだめなわけですが)なかなか際立った人物が多いので初代から最後の義昭までかなりざっくりと紹介していきたいと思います。


初代・尊氏(たかうじ

裏切りに裏切りを重ね、幕府を打ち立てた人物。その裏切り者のイメージからか後生の人々からの評判はあまり良くないものの、持前の気風の良さがあり家臣からは慕われていたそう。


二代・義詮(よしあきら)

地味な将軍として扱われがち。しかし初代が築いた基盤を受け継ぎ、諸制度の整備などに尽力した


三代・義満(よしみつ)

足利将軍家イチの派手さ。勘合貿易を成功させ金をガッポガポ稼ぎ、北山文化を花開かせ、南北朝を統一させるなどたくさんの功績を残したイケイケの将軍。


四代・義持(よしもち)

父・義満は貿易を成功させるために明(中国)に対して下手にでていたが、義持は明からの使者を追い返して、貿易を終了。明は激怒するも義持は無視を貫いたんだとか。義持は父である義満と確執があり、そのせいで義満の功績を壊したという説も。

五代・義量(よしかず)※肖像ナシ
父・義持とは円満な関係。嫁である日野栄子とも仲が良かったらしく、武家には珍しい円満な家庭を保っていた。とにかく酒が好きで好きで、19歳の若さで急逝。急性アルコール中毒か依存症が原因だとのこと。


六代・義教(よしのり)

義満の息子で義持の弟。五代・義量から見れば叔父。19歳で急逝した義量には跡継ぎがなかったので叔父である義教が就任。なぜ義教に白羽の矢がたったかというとくじ引き(神託)で決まったから義教は暴君だった。その政治は恐怖政治と悪名高い。武力に物を言わせる。家臣や家来をどんどんクビにする。比叡山焼き討ちも、信長より先にやってる。しかし褒美をちゃんと与える公平性、義持が父への反発からやめた勘合貿易を復活させるなど将軍としてよく働いた人。が、幕臣であった赤松満祐の自邸に招かれ裏切られ殺されてしまう。

七代・義勝(よしかつ)※肖像ナシ
義教の息子。わずか9歳の若さで就任するも、8カ月後に急逝した悲運の将軍。死因は赤痢だといわれている。


八代・義政(よしまさ)

義教の息子で、義勝の弟。足利将軍家イチのダメ将軍として知られている。政治に飽きて投げやりな態度をとり続け、日本史上類を見ないただただ無駄な「応仁の乱」の原因を作った人。しかし建築や作庭をはじめとした東山文化を開花させたプロデュース力は天才的なもので、現代に繋がる日本文化の礎を築いた。


九代・義尚(よしひさ)

義政の息子。義政と妻である日野富子の仲はよろしくなく、子ができずそのため義政は出家していた弟(義視よしみ)を還俗させた。その義視が将軍に就任する前に、日野富子が懐妊。義政がはっきりと跡継ぎを明言しなかったため、義視派vs義尚派に分かれ争いがおこる。これが応仁の乱の一因。義尚は将軍に就任するも、25歳の若さで六角氏討伐戦の陣中で没する


十代・義稙(よしたね)
25歳で世を去った義尚には跡継ぎがいなかった。将軍家(に入り込んでる日野家は)は少しでも自分たちの血に近しい方がいいと、将軍家の跡目争いで争った義視の息子を跡継ぎにすえる。これは義視の妻が日野富子の兄の娘であったため。義視は自らは将軍になることはなかったが、かわりに息子が就任するという事態に。義稙は周りに翻弄されまくった。将軍に推挙されて就任⇒ところが細川政元と手を組んだ日野富子に手のひらを返され、逃亡。大内義興にかばわれて再度将軍に返り咲くも、細川高国と対立し京都から逃げた。「流れ公方」と呼ばれてた…。


十一代・義澄(よしずみ)

一度目に京都から追い出された義稙の代わりに就任した、六代・義教の孫にあたる人。しかし、再び義稙が大内義興とともに京都に返り咲いたので、近江へ逃げた。細川澄元や阿波の三好家を頼りに再興をはかろうとするも夢かなわず没した。


十二代・義晴(よしはる)

義晴の後ろ盾は管領・細川高国。しかしその細川高国と対立していた細川春元が阿波の三好家の援助を受け義澄の子、義晴にとっては弟にあたる義維(よしつな)を擁立し、京を占拠しちゃう。細川高国と義晴は近江へ逃れる。その後も京へ戻ったり、近江に逃げたりという生活が長く続いた。管領家と有力家同士の争いに巻き込まれまくった人。


十三代・義輝(よしてる)

父・義晴を反面教師に細川春元と三好家と和睦を結び、近江からやっと京へ帰還した。和睦を結んだとはいえ、目障りな三好長慶を亡き者にするために刺客を放ったり、自身は剣豪なみの腕前の武芸達者に成長。近衛家から妻を迎え朝廷との結びつきをはかり、各地方の大名とも積極的につながりをもとうと書簡のやりとりにいそしんだ。将軍家の威光を取り戻そうと獅子奮迅した人。三好家の家臣だった松永久秀の裏切りにあい、没する。自ら剣をふるい敵を切倒していった壮絶な最期だったとか。

十四代・義栄(よしひで)※肖像ナシ
松永久秀の裏切りによって暗殺された義輝の代わりに、三好三人衆が擁立しようとしたのが義栄(義維の息子)。朝廷から将軍宣下を受けたものの、京には義輝の側近・細川藤孝らが擁立した義昭(義輝の弟)がすでに入っており、義栄は入京できず。義昭には織田信長ら有力大名家の援護もあり、三好三人衆は撤退を余儀なくされ、それにともない義栄もあっさりと阿波へ戻る。このいざこざのストレスが原因か、持病が悪化し病死してしまう。


十五代・義昭(よしあき)

細川藤孝や明智光秀の功により織田信長の支援をとりつけ、三好三人衆と義栄に勝ったのはいいものの、足利義昭に権限を与えず畿内を支配しようとした信長と対立。外交手腕を発揮し、各地の大名や本願寺に呼びかけ、信長を囲い込む「信長包囲網」を形成し一時は信長を追い詰める。だが信長に形勢逆転され、京都から追放された備後へ。これをもって足利幕府は滅亡する。豊臣秀吉が関白に就任後、京都へ帰還。将軍職を辞退し、一万石の大名として認められ貴人として余生を過ごした。