加賀百万石の象徴。雪景色が格別な兼六園

金沢の兼六園は水戸偕楽園、岡山後楽園とならぶ日本三名園の一つとして有名です。江戸時代の代表的な大名庭園として、加賀歴代藩主により長い歳月をかけて形づくられてきました。
兼六園の築庭は、城に面する傾斜地の部分からはじまりとされています。1676年、加賀5代藩主・綱紀(つなのり)が、作事所を城内へ戻して自己の別荘を建て、その周りを庭園化したのが作庭のはじまりだと言われています。 神仙思想をテーマにした回遊式庭園で大きな池を大海に見立て、その池の中に不老不死の神仙人が住むと言われる島を配しています。明治7年に兼六園は全面的に市民へ開放されました。

◆庭園レポート
訪れたのは2018年のお正月。金沢では大雪に見舞われた翌日に訪れたので、このような雪景色の兼六園を見ることができました。兼六園には日本最古の噴水があり、それがこちら。噴水より高い位置にある霞ヶ池を水源とし、池の水面との高低差を利用した自然の水圧で吹き上がっているそうです。

兼六園の中で最も樹形が美しいといわれている唐崎松。雪景色の中の雪吊りの姿のこの風情!美しいったらないですね。写真でも息を飲む美しさなのですが、キンと冷たい空気の中でこの景色を見ると本当に異次元の美しさで目を見張るばかり。

兼六園のシンボルである、徽軫灯籠(ことじとうろう)。水面を照らすための雪見灯籠が変化したものなんだとか。形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱(ことじ)に似ているため、その名が付いたそうです。徽軫灯籠と唐崎松のコンビネーション…最高か…。池が半分凍っているのもオツですね。いい時に訪問できてよかったなあ。真夏の松や緑が賑々しい感じもよかったですが、やはり雪景色は格別でした。

大名庭園は家の永劫の繁栄を願って、立派な松を植えるのが常ですが兼六園の根上松は本当に見事!根がせりあがってこの迫力の姿に。なんとこの根、人工的に手をくわえたたものだそう。13代藩主・前田斉泰(なりやす) が土を盛り上げて若松を植えて、成長後に土を除いて根をあらわにしたものだと伝えられています。

ああ、本当に美しかった。写真で見返してもあの美しさは忘れない…。しかし溶けかけの雪が容赦なく木々の上から落ちてくるのでかなり冷たい&軽くパニックに陥ります。傘をさしたほうがいいかもしれません!


◆入園
年中無休
3月1日~10月15日  7:00~18:00
10月16日~2月末日 8:00~17:00

◆入園料
無料

◆所要時間
1時間ほど

◆アクセス
石川県金沢市丸の内1番1号 ⇒地図


◆歴史のこばなし
こちらの歴史のこばなしでも加賀藩主・前田利常について触れていますが、今回はその三代・前田利常の異母兄であり養父でもあった二代・前田利長についてのコラムを。初代・利家と三代・利常が派手な人なので地味な二代目として扱われているのですが、なかなか戦略家の一面も持っていたんです。

初代・前田利家(織田信長家臣⇒本能寺の後の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家側につくも降伏して仲の良かった豊臣秀吉側に寝返り、そのまま豊臣家の家臣となる)を父にもち、母は内助の功のエピソードで有名なまつ。若い時から自身も父とともに、豊臣秀吉の配下として数々の合戦に参加。秀吉の九州攻めの際は華々しい戦果をあげています。

▲前田利長 肖像

豊臣秀吉の死後、豊臣家内の分裂抗争が起り、徳川家康派vs石田三成派に分断!一触即発の事態に。前田利家は徳川家康と渡り合える最後の大物実力者。徳川家康に対して重要な抑えのポジションを担っていました。が、そんな時に!前田利家はガンで死んでしまう…。

最重要ポジションだった父の跡を継いだ利長。前田利家は遺言で「わしが死んでも三年は金沢に帰るな。大坂城にいて、秀頼公をお守りせよ」と前田利長に伝えました。政治の中枢にいて、存在感を発揮し続けろというのが父の残した遺言でした。
しかし利長は父の遺言に反して加賀に帰り、引きこもってしまいます。この大事な天下の取り合いの画策の最中に、中央での争いに加担する気はないと言わんばかりに。家臣たちは「この殿にはやる気がないのだ、守りに入ったのだ」とがっくりします。

これこそが利長の戦略で「三州割拠」と呼ばれ、のちの前田家の外交戦略の考え方になる礎だったのです。中央での政権争いには加わらない。加賀・越中・能登の三カ国に立て籠もり、ひたすら時を待つ。そのうち、中央での政権争いで覇者たちが疲れてからその場に討ってでて、美味しいとこどりをするという持久戦の戦略です。利長は非常に冷静に己の能力や立ち位置、求心力が父には劣ることを充分に理解しており、だからこその行動だったと考えられています。

そんな時、前田家が徳川家康を暗殺しようとしているという噂が流されます。利長は三度も重臣を遣わして申し開きをしますが疑いは晴れず…。ここまできたら父の遺言通り豊臣家を守るために徳川家と一戦交えるしかないかとも覚悟を決めたそうですが、母・まつが江戸城に人質にとられていたこと、養子となった前田利常と徳川秀忠の子・珠姫の政略結婚が確定したことで交戦は回避され、前田家は表面的には徳川派になりました。
この時点では徳川家は前田家と交戦するにはリスクが大きく、最重要目的である反徳川派の一掃には結び付かないですし、力の大きすぎる前田家をどうにか引きずり込むための謀略だったのではないかと思います。


▲関ヶ原の戦い、西軍と東軍。東軍に前田家がいますが、もともとは西軍派だったわけで。上杉家・毛利家・宇喜多家を擁する西軍に前田家まで加わってたらとんでもない兵力です。前田家を取り込もうとするのも頷けますね(画像引用元 歴ウス

表面的とはいえ、徳川派になった前田家は関ヶ原の戦いでは「加賀より南下して早く戦いに加われ!」と家康からプレッシャーを与えられました。利長にとって大事な生母・まつを人質にとられている以上、従わないわけにはいきません。利長は重い腰をあげ、25,000の軍を率いて南下をはじめます。しかし、周辺の石田派の城を落とすとまた加賀にもどって兵を休ませたりとまっすぐ関ヶ原には向いはせず…。関ヶ原の戦いに乗じて周辺の城を落としまんまと領土を拡大する。まさに、中央の戦いには参加せず漁夫の利を得る、利長ならではの戦略。

家康にしてみれば、前田家の立ち位置はそれでもよかったのです。関ヶ原は西軍が勝つか東軍が勝つか本当に予測不能な合戦でした。どちらが勝手も負けてもおかしくない、家康にしてみれば人生最大の大博打。

もともと東軍は「石田三成憎し」で集まったもの。徳川家康に忠誠心や恩義がある外様大名は少なく「豊臣秀頼をお守りするため」という家康の巧妙な大義名分にだまされた福島正則をはじめとする秀吉の子飼いの大名の誰かが寝返ってしまった場合、雪崩的に離反が起る可能性もあったわけです。その場に25,000もの大群を率いた前田家、本をただせば対立候補の筆頭の前田家がいるとそれはそれは大きなリスク。だから「前田家は主戦場にいないが中立の立場である」ことは家康にとってはそれだけでありがたいことだったかと思います。

関ヶ原の戦いに乗じて切り取った領地をそのまま加えられ、加賀・越中・能登を合わせ領地は122万石を超えました。父・利家の「加賀100万石」を超え、外様大名では最大の藩となります。利長は44歳の時に三代・利常(この時12歳)に家督をゆずります。5年ほどは幼い利常の後見役を努めましたが、病がに倒れ隠遁生活に。53歳でこの世を去ります。

前田利長が父・利家の遺言通り徳川家康に真っ向から対決していれば西軍は勝利して、徳川幕府は起こらなかったのかもしれません。愛しい母・まつを人質にとられている以上どうしようもなかったこと、領地を盤石なものにするために三州割拠の戦略にしたこと。今、私たちが美しい加賀の文化を見れているのは前田利長の礎のおかげですよね。