広々とした大雄苑と、四方から眺められるたおやかな潮音庭

建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を禅寺として復興しました。

◆庭園レポート
いつでも大人気の建仁寺。観光シーズンは人が多すぎる場合もあるので、私は真夏に行くのが好きです。緑がこれでもかというほど色濃くて真夏の庭園も素敵です。
長らく衰退していた時代、復興のために方丈や仏殿を安国寺恵瓊が移したということを知らなかったので、ちょっと得した気分でした。※安国寺恵瓊は戦国期の毛利家の外交僧として活躍した人物です。
方丈庭園には「大雄苑」その名の通りひろ~いです。白砂に緑苔と巨石を配した枯山水庭園です。七代目小川治兵衛の作庭で、植治の作品として枯山水は非常に珍しいそう。
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四方の庭「潮音庭」の三尊石の配置が美しくて、ずっと見ていられるような妙技が光るバランス。ちょっとずつ座る位置を変えてみたりして何度も位置を変えて楽しみたくなる、まさに四方から眺められる庭。縁側に腰掛けて庭に面していると庭が室内に流れ込んでくるというか、風が流れ込んでくるのは当たり前なんですが潮音庭そのものがひたひたと流れ込んでくるようなそんな気がする、たおやかな印象のお庭でした。ただ、真夏の京都は暑すぎて…途中バテててしまいました。真夏の京都を出歩く行く時は体調万全で!


◆拝観
12月28~12月31日は拝観不可
10:00~16:00

◆拝観料
500円

◆所要時間
30分ほど

◆アクセス
京都市東山区大和大路通四条下る小松町584 地図
「阪急河原町」駅から徒歩10分。「京阪祇園四条駅」より 徒歩 7分。


◆歴史のこばなし
安国寺恵瓊は毛利家の外交僧であったと記載しましたがその出自は諸説あるようです。天文10年(1541年)毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると家臣に連れられて脱出し安芸の安国寺(不動院)に入って出家します。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となります。恵心は毛利隆元(元就の子・輝元の父)と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなり、毛利家の外交僧として活躍しはじめます。

本能寺の変の際、対毛利で中国地方にいた秀吉がすぐに京に戻らねばならなかった時、毛利家と和議を結ぶことになり、その和議をまとめたのがこの安国寺恵瓊だと言われています。さらに秀吉が織田信長の孫の後見人として天下取りに名乗りをあげていくことを見越して、毛利家の領土を守るために様々な策を講じて、どうにか毛利家と秀吉が対立しないように画策しましたそのことから秀吉に信頼され、秀吉の側近となります

四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられ天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され僧でありながら豊臣大名という異例の位置付けになります。すごいことですね。その後も秀吉の側近として、九州諸将への指示伝達のため九州に派遣されたり、秀吉の命令で行なわれた検地の奉行、厳島神社の千畳閣の作事などを努めました。ちなみに千畳閣は完成前に秀吉が死去したので建設は中止になり天井張りなど未完のままですが、現存していて厳島に行けば拝観可能です。実際には1000畳はなく864畳だそうですが、それでもすごーく広いですけどね。

ところで毛利家を支えていた家として、小早川家と吉川家がよくでてきます。まず小早川家。毛利元就の代の時に、小早川家の当主が亡くなり嫡子がなくその家臣たちに頼みこまれたため、毛利元就は三男を養子縁組します。この子が後の小早川隆景で毛利秀元の実弟です。こっちは割と円満な養子縁組ですよね

そして、毛利元就の次男も母方の従兄の吉川興経の養子となります。これは当主・興経をよく思っていない吉川家臣団の勧めもあって、興経がやむを得ず承服したものであるとされています。元就は興経を強制的に隠居させると、元春に家督を継がせて吉川家の当主としました。そしてその後、興経とその嫡子・千法師を殺害させ、毛利家より格上の吉川家を事実上乗っ取りました。こっちの話はうまく吉川家臣団を煽って乗っ取った感じ、元就こわい!

というわけで毛利元就は長男の隆元が継ぎ、次男の吉川元春、三男の小早川隆景に毛利家を支えるようにとよく言い含めます。あの有名な「三本の矢」の話は、元就がこの三兄弟に向けて伝えた逸話です。

毛利家の当主の隆元が若くして亡くなり、その嫡子・輝元が継ぐと、叔父である吉川元春・小早川隆景は後見人として補佐していました。反秀吉はだった吉川元春は毛利家が秀吉に仕えることになった後、家督を嫡男・元長に譲って隠居します。対して小早川隆景は親秀吉派だったので積極的に四国征伐などにも参加します。家督を譲られた吉川元長ですが、九州征伐の際に病に倒れ病死します。そして弟の吉川広家が家督を継ぎます。

ずっと子がなかった秀吉ですが、側室・茶々との間に子ができたため豊臣秀吉の後継者候補だった秀吉の甥(正妻・ねねの兄の息子)を毛利輝元の養子にしてはどうかという話が持ち上がります。それを聞いた小早川隆景は「毛利本家に他の血筋を混ぜることはいやだ」と思ったのか、はたまた秀吉の縁者と養子縁組することで小早川家の家格があがることを狙ったのか真意のほどはわかりませんが「ぜひ我が小早川家と養子縁組させてくれ」と秀吉に頼み認められます。そうして養子縁組したのが小早川秀秋です。

安国寺恵瓊、吉川広家、小早川秀秋。いずれも関ヶ原の合戦ではそれぞれ、とても重要なポジションを担っていました

まず安国寺恵瓊は、石田三成ととても仲が良かったので関ヶ原の合戦の時は毛利輝元を総大将として担ぎ出すことに成功。なかなかすごい功績ですよね。五大老のうちの一家、毛利家を西軍につけることに成功。
安国寺恵瓊と吉川広家とは仲が悪く、対立していたので毛利本家と吉川家との連携はまるでなかった模様。逆に吉川広家は徳川家康(東軍)に内通していたため吉川家は毛利家に従って一応、西軍側に参加してはいましたが戦いには参加しないどころか、安国寺恵瓊の隊と小早川家の隊が動けないように足止めをします。
この行動は、西軍に勝ち目はないと見越した吉川広家が毛利本家をどうにかして守るための密約(本家は安国寺恵瓊にそそのかされて西軍に与したが、もし西軍が負けても毛利本家の所領を安堵してほしい)を交わしており、そのためのものだったとされています。全ては毛利本家のためだ、と。

小早川秀秋も小早川家の家臣団が黒田長政により東軍に引き込まれており、毛利家に従って一応は西軍に参加しますが、東軍に内通していました。しかし小早川秀秋本人は最後まで「勝ちそうな方につきたい」と日和見の姿勢で、ついに激怒した徳川家康本隊から射撃され恐れをなした秀秋は味方であったはずの西軍の大谷吉継隊に襲いかかり、西軍を裏切ります。

小早川秀秋の裏切りに連鎖するように、脇坂安治・朽木元綱ら他の諸将も次々と裏切ったため、西軍は敗れます。これが小早川秀秋が西軍敗北の戦犯だとよく言われる理由です。

関ヶ原の後、安国寺恵瓊は西軍の中心的存在であったとして、石田三成らとともに斬首されました。毛利本家は、吉川広家が家康と交わした所領安堵の約束が反故にされ改易されかけます。吉川広家が戦功として与えられるはずだった領地を毛利輝元に譲る事で、減封のみの処分で済みました。これを見ると、吉川広家は本当に毛利本家のために画策していたんでしょうね。小早川秀秋は領地を加増されましたが、関ヶ原の二年後21歳の若さでアルコール中毒による心臓疾患で亡くなったそうです。そして子がなかったので、徳川幕府により改易されます。せ、せつない…。

ものすごく長くなりましたが毛利本家と小早川家・吉川家の関連性、安国寺恵瓊と吉川広家の対立、小早川家の養子縁組など複雑な要因が重なって、重なって関ヶ原の合戦にいきつく…。おもしろーい!もし、安国寺恵瓊と吉川広家が仲良しだったら?小早川秀秋の養子縁組が成立していなかったら?とか歴史に、たられば言っても仕方ないですが、考え出すと面白くって仕方ありません。