宝泉院は勝林院住職の坊として平安末期からの歴史があります。天台宗を開いた最澄の高弟・円仁が唐の仏教修行を終え、日本に帰ってきた時に密教、五会念仏など法要儀式に用いる仏教音楽「声明」を伝えました。その後、寂源は大原寺(勝林院)を開き、大原は法儀声明が盛んとなり、今でも天台声明の聖地となっています。
◆庭園レポート
宝泉院といえば樹齢700年の松を、柱と柱の空間を額に見立てて鑑賞する「額縁の庭」が有名です。威風堂々とした松の圧倒的な存在感たるや!
宝泉院で見逃せないもう一つのポイントは伏見城の床を供養のために祀った血天井。よーく目を凝らしてみると突っ伏したまま息絶えた人の形が見えるそうです。戦国時代の凄惨さをありありと感じることができます。
そして宝泉院にはもう一つ庭園があります。「宝楽園」と名付けられた庭はごく最近完成されたもので、作庭は園治(えんや)が手がけたもの。庭園におりた瞬間「なんやこれは~わあ!宇宙的!」な感じで、設計の意図も「仏神岩組海流水回遊花庭」を趣向した太古の創世、原初の海を想像して石組だそうで、神仙世界が散りばめられています。かなりキテる庭です。
「躍動感の美しさに触れて、悠久の気を養っていただきたく思います。」と紹介文に記載してありますが、躍動感も、浮遊感も感じましたし、とにかく自分が立つ場所で見える世界が変わる!こんなにエンタメ的なというか装置的な庭を体感したのは初めてかもしれません。回遊し終わった後は、アトラクションを体験したあとのような高揚感と爽快感。ぜひ、季節を変えてもう一度行きたいです。
◆拝観
無休 9:00~17:00
◆拝観料
800円
◆所要時間
30分ほど
◆アクセス
京都市左京区大原勝林院町187 地図
JR京都駅 「京都駅前」停留所 17系統・18系統に乗車、「大原」停留所まで約65分。
地下鉄烏丸線「国際会館駅」で下車後、「国際会館駅前」停留所にて19系統に乗車「大原」停留所まで約25分。
◆歴史のこばなし
宝泉院に祀られている伏見城の血天井ですが、話は関が原合戦の時にさかのぼります。伏見城は豊臣秀吉が自身の隠居のための城として建立したもので、秀吉の死後は家康の京での居城となります。
関ヶ原の合戦は日本の歴史上1番有名な戦だと思いますが、いきなり家康が「天下獲るぞ!」と開戦したのではありません。どの戦もいきなり領地奪うぞ!権力ぶんどるぞ!と始まるものはなくそれぞれに大義名分があります。
秀吉は亡くなる前、病床にて跡継ぎの秀頼が幼少だったため五大老(その中でも特に前田利家・徳川家康)に秀頼の後見人としてくれぐれも頼むと言い残し、五奉行・五大老に誓紙に血判を押させてこの世を去ります(この誓紙は現物が残っていて大阪城が所蔵していてたまに公開されます)。
その遺言通り、前田利家は秀頼の後見人として奮闘します。かたや徳川家康は豊臣政権下では禁止されていた有力大名家との婚姻による姻戚関係の構築を図ります。
豊臣家の執行官であった石田三成は、徳川家康を弾劾しますがのらりくらりと交わされます。
徳川家康の勝手な行動については前田利家が何度か諌め、抑止力になっていたのですがその肝心の前田利家も病死してしまいます。そうなると徳川家康の独壇場。抑えとなる大名が亡くなっていき、最後の大物になった家康(徳川陣営)が「天下取れるだろコレ」と思うのは当然かと。それくらい運がある。
石田三成は徳川家康を止めないと豊臣家の天下が危ういと危惧しだします。しかし、事件が起こります。元々、豊臣家には加藤清正や福島正則をはじめとする「武断派(ぶだんは)」と石田三成や増田長盛をはじめとする「文治派(ぶんちは)」という派閥があって非常に仲が悪かったんです。ずっと分裂状態でいがみ合っていた2つの派閥。武断派がこのタイミングで石田三成の暗殺を企てます!
その暗殺事件のいざこざを収めたのが徳川家康でした。石田三成に「このいざこざを招いた要因はそちらにもある」と五奉行・執行官としての地位を剥奪し政治の中枢である大阪より退かせ、居城である佐和山城(現在の滋賀県)に謹慎させます。
謹慎させられたとはいえ、家康と一戦交えることは覚悟の上の石田三成、上杉景勝とともに着々と戦闘準備を進めます。上杉家がどうやら戦闘に備えて城の補強をしているらしい、と聞いた徳川家はすぐに使者を出し「天下に動乱をもたらす気か?こっちに出向いて理由を述べたうえで、誓詞を差し出せ」と問い詰めます。
それに対しての返答が上杉家家臣の直江兼続が書いたあの有名な「直江状」です。
「うちの家のことで色々な噂があるみたいですけど京と大阪の近い距離間でも色々な噂が立つのにこんなに離れて距離があると色々な噂がたっちゃうのは仕方ないっすね。帰国したばっかりで領国経営もままならんのに簡単に上洛しろって言われても困るんすよね~。言うても遠いし。裏切らない証に誓詞をだせって言われてもな~。あ、そういえばこの間、出した誓詞ってどうなりましたっけ?京や大阪の武士は茶器を集めるのが好きみたいですけど、田舎の武士は武器を集めるのが好きなんですよね。風土の違いっすね。」みたいな内容です。
それを受け取った家康は激怒して「天下に動乱をもたらしかねない、上杉征伐!」の名目でいよいよ挙兵します。やっと大義名分ができました。長かったですね。で、やっとここで伏見城がでてきます。
表向きは「上杉征伐」ですが誰の目にも石田三成が徳川家康が上杉討伐に東へ向かったあと、関西で挙兵するのは明らか。そうすると石田三成がまず攻めるのは徳川家康の京での居城、伏見城になります。徳川家はほとんどの兵を上杉征伐に投入していくわけですから伏見城は捨て城となります。
それを守る役目になったのが徳川家康が幼少の頃からずっと側仕えだった鳥居元忠。家康に「兵を残してやれなくてすまぬ」と言われた元忠は「大軍に包囲された時は城に火をかけ討死します。ですから一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」と言って酒を酌み交わしたエピソードは美談として語り継がれています。
読み通り、家康ら徳川家の本隊が上杉征伐へ東征すると石田三成は挙兵し、伏見城は関ヶ原合戦の前哨戦として13日間に及ぶ攻防の末、鳥居元忠ら徳川家の家臣は討ち死にし、伏見城は落ちます。
鳥居元忠の忠節は「三河武士の鑑」と讃えられたそうです。そんなエピソード込みで血天井を見ると、怖いとか恐ろしいという気持ちより、胸にこみ上げる感動があるかもしれません。