雪舟の作庭と伝わる枯山水と池泉庭園、常栄寺

禅の庭

大内政弘が別邸としてたてたもので、1470年頃に雪舟に依頼して築庭させたものといわれています。大正15年に国より史跡ならびに名勝に指定されています。

庭園レポート

常栄寺の庭は金閣寺の庭をモデルにしたとする説もありますが、雪舟は単なる複製ではなく独自の庭園を作庭しました。約900坪の広い庭園で、地形を最大に利用した雄大で躍動的な造形が特長です。北側に枯滝、中央に心字池がある回遊式池泉庭園です。池の周囲に多くの石が配されています。立石の豪放さ、頑丈さが際立つこの庭園は直線や角にこだわっていた雪舟の山水画と通ずるところがあると言われています。


竜門瀑は単なる滝と鯉魚の造形ではなく、鯉魚が龍に変化する姿をドラマチックに表現しています。地形を巧みに利用したどこまでも続きそうな石組みが圧倒的!この位置からでは鯉魚石が見えないのですが、回遊すると見えてきます。


池の中にポツンとひとつ配置されているのが鯉魚。今まさに龍にならんと飛翔している躍動的な瞬間を表現しています!


◆拝観
8:00~17:00( 11月~3月は16:30閉園)年中無休

◆拝観料
大人300円

◆アクセス
山口県山口市宮野下2001-1


歴史コラム

雪舟は日本の絵師の中でもトップクラスに有名で、画聖と呼ばれています。なぜ、雪舟は特別なのか? 2024年の京都国立博物館で開催された特別展「雪舟伝説-画聖の誕生-」で拝聴した講義の内容をもとに書いていきたいと思います。
1420年頃に岡山で生まれた雪舟は、幼少期より禅僧になるためにお寺に入っていたそうです。修行をさぼった雪舟が罰として柱にくくりつけられた時に涙でねずみの絵を描いた逸話はとても有名ですね。

 

雪舟はなぜすごい?あの独創性はどこから?

雪舟は京都の相国寺でも禅と絵を学んでいたといいます。相国寺の禅僧、周文が雪舟のお師匠です。周文は日本水墨画様式を確立した人です。周文にはとてもたくさんの弟子がいたそうなので、雪舟が弟子の中でどのレベルに属していたかは定かではないようです。
相国寺で禅を学んだ雪舟は、山口の大名・大内氏の支援で明に渡ります。そして明の宮廷画家のもとで絵を習います。絵師として明に渡ることも超レアですし、本場の宮廷画家に手ほどきを受けられたことも超レアだったそうで、雪舟が唯一だったのではと言われています。
明に渡った後、雪舟の画風は一変しました。細かい線で描く画風から大胆で大振りな画風へと変化します。雪舟の独創性はこうして生まれました。明に渡ったことはそれほど大きな影響のある出来事だったのでしょう。日本に帰ってきてからは丹後、美濃などにも逗留しますが基本的には山口を中心に地方在住の絵師として活躍します。当時の中心地の京都ではなく山口に在住した理由として、大陸の文化が入ってきて外交の要であった博多や南九州に近かったためだそうです。

雪舟が描いた達磨大師!この太い線で強烈にメリハリをつけて表現するの、当時としてはめちゃくちゃ斬新なはず!

 

雪舟の弟子

京都、岐阜、堺、鎌倉、鹿児島、越後など各地に雪舟の絵が残されています。長谷川等伯の祖父の師匠、等春は雪舟の弟子だったそうです。等春はとても才能があり、雪舟系の画家ではありますが雪舟の画風とは違い都風の洗練したものも多く描いた絵師です。
近江六角氏も雪舟の絵を手に入れていたそうです。雪舟はとにかくフットワークが軽い人でした。行動範囲が広いため、雪舟の絵の流通範囲も広がっていきました。個性的な画風と合わせて強い印象を持つ雪舟の絵は、全国の画家たちに影響を与えていたのでは?と推測されます。
直系の弟子であっても影響度合いがバラバラな上に雪舟の画風を真似をしただけの人も多かったようで、直系の弟子であるかそうでないのかが判別がし難いとされています。おおよその弟子の数は30人くらいで全国あちこちにいたと言われています。雪舟の画風や性質がそこまで統制されていなかったこともあり、雪舟風の絵はどんどん描かれました。作者が直系の弟子であるか雪舟風の絵を描いただけの人なのか、実態はよくわからなっていきました。全体像は不明瞭ですが、全国的に大きな影響を与える集団であったとは確かであり、それがやがて雪舟伝説へとなっていきます。

長谷川等伯《松林図屏風》

 

雪舟の人気の再燃

雪舟の人気は江戸時代に再燃します。江戸幕府の御用絵師であった狩野探幽が雪舟の絵を高く評価し画風を学び、採り入れたことがきっかけでした。長谷川派は雪舟の直系であることを謳ってきましたが、狩野探幽までの狩野派に関しては雪舟の影響は見られていませんでした。雪舟と同じ年代に活躍し、足利義政に仕えた初代の狩野正信やその嫡男の元信は雪舟の存在をもちろん認知していたでしょうから、影響がないとも言い切れないのですがはっきりしたことはわかっていません。狩野派に関しては探幽の代で大きく雪舟に傾倒した、ということが明白です。また、関東の武家や大名の間で北関東の絵師・雪村の絵が人気になり、その流れで雪舟の絵も再び人気になったそうです。
いずれも1600年代初頭あたりの出来事です。そこから雪舟は神格化され、現在では「画聖」と呼ばれています。

狩野探幽《四季花鳥図(雪中梅竹鳥図)》

昔から現在までずっと人気の雪舟。多作であったこと、フットワークが軽く全国のあちこちに作品が残されていることから現在でも多くの作品を展示会などで目にすることができます。その大胆で個性的な筆致を堪能してみてください。

ikeda

ikeda

日本庭園(主に古庭園)と歴史が好きな管理人が日本庭園の紹介と歴史コラムをと書いています。京都芸術大学大学院環境デザイン領域日本庭園分野を修了。書いた論文を当サイト内でも公開しています。

関連記事

TOP