桃山式の優美な回遊式庭園 水前寺成趣園

水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)は熊本県熊本市中央区にある大名庭園です。細川忠利(忠興の子)が渾々と清水が湧くこの地を気に入り御茶屋として作事されたのが始まり。優美な回遊式庭園です。築山や浮石、芝生、松などの植木で東海道五十三次の景勝を模して縮景しています。

◆庭園レポート


富士を模した築山があり、起伏に富んだおおらかな庭園でした。ただ大名庭園のさだめですが、市中にあって景観とのミスマッチ感が少しだけありました。ただそれを引いても、とても美しく、足を踏み入れた瞬間から漂う優美な空気を堪能できる庭園です。


満ちた池泉となだらかで美しいラインの築山。風に吹かれて水紋ができているのも良かったです。5月の晴れた日という条件の良い日でした。曇りや雨だとまったく違う趣を感じさせてくれそうで、また季節や天候が違う時にも行ってみたいです。


注目すべきは京都から移築された「古今伝授之間」。細川藤孝(幽斎)が智仁親王に古今集の奥義を伝授された建物があること! 勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもので、この場合は細川幽斎が師で智仁親王が弟子となります。


◆入園
3月~10月 7時30分~18時(入園17時30分まで)
11月~2月 8時30分~17時(入園16時30分まで)

◆入園料
400円

◆所要時間
30分ほど

◆アクセス
熊本市中央区水前寺公園8-1 ⇒地図

・熊本駅前電停から路面電車(A系統 健軍町行き)で約35分【水前寺公園】下車 徒歩4分
・JR電車(豊肥本線下り)で8分【新水前寺】下車 徒歩10分


◆歴史のこばなし


戦国時代譚にしょっちゅう登場するこの細川藤孝・忠興親子細川藤孝は機を見るに敏、先見の明に優れており、ずば抜けた危機管理能力の高さで主家替えし続け、生き残りました。肥後細川家は名家として現代も脈々と受け継がれています。18代の細川護熙(もりひろ)氏は内閣総理大臣も務めましたね。

室町幕府の管領家・細川家の分家筋の生まれであった細川藤孝は将軍・足利義輝に仕えていましたが、三好三人衆と松永久秀に足利義輝が暗殺されるとその弟であった足利義昭を救出し、還俗させました。

足利義昭を将軍にするために奔走し朝倉義景を頼り、朝倉家に仕えていた明智光秀を通じて織田信長と接触。それをきっかけに足利義昭は織田信長の支援を受けることになります。

織田信長の上洛、足利義昭を将軍職に就けることに成功。が、こちらでも書いていますが蜜月は続かず、足利義昭と織田信長が対立。すると細川藤孝は足利義昭を見限り、織田信長に従うことにします。
当然、息子の細川忠興も織田信長の家臣として父・藤孝と一緒に紀州征伐や松永久秀の信貴山城攻め、丹後攻めなど歴戦の戦いに参加しています。忠興は織田信長の仲人で明智光秀の娘・玉子(のちのガラシャ)と結婚しました。

が、急転直下の出来事が。細川藤孝が懇意にしていた明智光秀が織田信長に反旗をひるがえし、謀反。織田信長は横死!ここで主家殺し、裏切り者となった明智光秀。縁戚関係でもあり長い付き合いの僚友の細川藤孝に味方になってくれるよう当然、要請します。

が、細川藤孝はこの要請をきっぱり断り家督を忠興に譲り、剃髪して幽斎と号し隠居します。さらに忠興の妻で明智光秀の妻・玉子を幽閉するように命じました。頼みにしていた細川藤孝にも筒井順慶にも見放された明智光秀は豊臣秀吉軍に敗れ、敗死します。

ところで細川藤孝は幼少の頃から剣術、弓術、馬術、礼法を学び、さらには武野紹鴎に茶道を学んでおり、知性と教養のある文武両道の人物として有名でした。
細川藤孝(幽斎)は信長の後は秀吉に仕え、文化知識や教養を秀吉やその側近に教えます。紀州征伐や九州征伐にも武将として参戦しています。

秀吉亡きあとは親交のあった徳川家康に取り入ります。関ヶ原の戦いでは東軍側につき、息子の細川忠興は本体を引き連れて関ヶ原へ、細川幽斎は残された手勢約500程で田辺城を守ることに。


15,000の西軍に包囲された田辺城(舞鶴城)でしたが、細川幽斎は見事な指揮で粘り強く籠城。西軍の包囲網に参加していた智仁親王は歌道の師匠である細川幽斎が討ち死にすると古今伝授が絶たれてしまう!と恐れました。兄である後陽成天皇に天皇命令で戦いを調停することを頼み、田辺城の戦いは勅命により講和となりました。

細川幽斎は晩年は京都で悠々自適な生活を送ったとされ、77歳でこの世を去ります。

足利義輝に仕え義輝亡きあとは足利義昭を将軍にさせ、義昭を見限り信長に仕え、盟友・明智光秀を見捨てて秀吉に仕え、世の移り変わりよと家康に仕え…。
とはいえずる賢く立ち回っているイメージは全くなく常に冷静沈着、高い知性を駆使した危機管理能力で時流を見極め見事に世を渡り歩いている、聡明な印象の人物。

ちなみに自身が見限った足利義昭が61歳でひっそりと亡くなると葬儀を執り行う人が誰もいなかったので見かねた細川幽斎が葬儀を主催したという胸温まるエピソードがあるかと思いきや、葬儀費用は一切ださなかったとかで、ここでも冷静さがうかがえますね…。

息子・細川忠興も武功華々しい武将であり、茶人・文化人でもあり、あとは嫁とのエピソードが強烈なので、また大徳寺・興臨院のページの歴史のこばなしでご紹介したいと思います。