天龍寺、西芳寺と並ぶ夢窓疎石の代表的池泉庭園・恵林寺

山梨県にある恵林寺は臨済宗妙心寺派の寺院です。1330年に、二階堂出羽守貞藤にかいどうでわのかみさだふじが夢窓疎石を招き、自邸を禅院とし創建しました。甲斐の覇者、武田信玄が自ら菩提寺と定め、寺勢を高めました。武田信玄亡き後、家督を継いだ武田勝頼でありましたが織田信長に敗れ自刃。武田氏は滅亡します。恵林寺も織田信長軍によって焼き討ちにあいますが、徳川家康の手によって復興されました。

◆庭園レポート
方丈前には枯山水の庭があります。目を奪われたのは松の樹形!松の樹形も灯篭などの景物の配置のバランスもすっごくツボでした…!同行の友人が「(いい加減に)もういこうよ」と痺れを切らすくらい眺め続けてしまったほど。

恵林寺といえば開山でもある夢窓疎石が築いた池泉庭園が有名で、国の名勝指定にもなっています。天龍寺、西芳寺と並ぶ夢窓疎石の代表作の一つともいわれています。夢窓疎石の庭は時代背景のせいか(運搬技術のせい?)室町時代以降のお庭より大きな石を使っていないようにいつも思います。ただそれが気品を感じさせ、楚々としたたたずまいにいつも寛ぎを覚えます。キュと色々な要素があつまった小さな浮島もとつつましやかで好き…!

池には鯉が放流されているので魚影を楽しんだり渡り廊下の腰掛椅子に座ってぼーっと庭を眺めたり、額をかすめる風を感じたり水のせせらぎを楽しんだりとまさに五感がフルに稼働するお庭です。


◆拝観
午前8:30~午後4:30(年中無休)

◆拝観料
500円

◆見学所要時間
30分ほど

◆アクセス
山梨県甲州市塩山小屋敷2280 ⇒地図
バス JR中央線塩山駅南口から西沢渓谷行、恵林寺前下車
JR中央線塩山駅から約20分


◆歴史のこばなし
冒頭にも書きましたが、武田信玄が死去したあと、家督を継いだ武田勝頼ですが父がまとめあげた武田家臣団をまとめられず(家臣の裏切りなどが相次ぐ)あの有名な長篠の戦(織田信長の鉄砲戦術で最強と謳われた武田騎馬隊を壊滅させた戦)で敗れ、武田家は滅亡します。

武田家滅亡後、織田信長は恵林寺を焼き討ちにしたのですが織田信長で焼き討ちといえば「比叡山延暦寺の焼き討ち」が最も有名ですよね。比叡山の焼き討ちのきっかけは、信長包囲網(反織田信長派の浅井家・朝倉家・六角氏・三好家・武田信玄・足利義昭・雑賀衆・浄土真宗の本願寺・天台宗の延暦寺・などの大名家や宗派や元将軍による連合軍)を崩壊させるにはどこを攻めうるべきか。で、信長がとった策が「近江(現在の滋賀県)の平定」と「延暦寺の無力化」でした。滋賀県は京都を狙う上では外せない最重要の土地比叡山は北陸路と東国路の交差点で、山上には延暦寺の数多い坊舎があり数万の僧兵を擁していました。その比叡山を無力化しないことには京都への道は開けん、として織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。

画像引用元 歴史.net

武田氏滅亡後、恵林寺が焼き討ちにされたのは、上記の延暦寺の焼き討ちとは主旨が異なります。上の信長包囲網の連合軍の中にも入っていますが、元は近江の守護であった六角承禎とその息子・次郎は近江を追われた後も各地で反信長派として活動していました。武田領を拠点に活動していた六角次郎は武田氏の滅亡後、恵林寺に逃げ込みます。

六角次郎の引き渡しを織田軍に命じられた恵林寺の快川紹喜かいせんじょうきは引き渡しを拒否します。織田信長に甲斐の戦後処理を一任されていた息子の織田信忠は恵林寺を焼き討ちにすることに決め、寺内に僧たち(約150名)を閉じ込め火を放ちます。織田信長が焼き討ちにしたというか、織田信忠の判断だったんですね。

燃え盛る火の中で快川紹喜が最後の言葉として「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」という禅語を放ったというとても有名なエピソードがあります。そして焼き討ちのきっかけとなった六角次郎は姿をくらまして逃げおおせたそうです。えっ、そうなの!?あんたをかばってくれたのに??って思ってしまいました…。いや、でも生き延びて一矢報いることが恩返しなのか…。