曼殊院の歴史はとても古く、延暦年間(728~806)伝教大師最澄により、鎮護国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまりです。
天仁年間(1108~10)八代忠尋大僧正が寺号を「曼殊院」と改め、北山に別院を建立されました。
◆庭園レポート
大書院前には遠州好みの枯山水庭園があります。水の流れを表した砂の中に鶴島と亀島を配していて、奥に滝石が配されています。
小書院は静かに水面をさかのぼる屋形舟を表現しているそうです。 当然のことながら、鶴島を中心にみる景色、亀島を中心にみる景色とでは世界観が違うのでどの角度から見ても楽しめる庭園。
小書院の奥には茶室「八窓軒」があってそれに繋がる路地も素敵です。特に古書院から座して滝石組を正面にしてボ~っと鑑賞するのが最高に気持ちよかったです
風がそよそよと吹いて目の前には水の流れを感じる白砂。今、思い出しても多幸感を感じて顔がニヤニヤしてしまいます。それくらい、居心地と気持ちの良い庭園でした。
◆拝観
無休 9:00~17:00(16:30受付終了)
◆拝観料
600円
◆所要時間
20分ほど
◆アクセス
京都市左京区一乗寺竹ノ内町42 地図
JR京都駅より5番
地下鉄北大路駅より北8番
地下鉄国際会館駅より5・31番系統で
一乗寺清水町下車、東へ徒歩20分
◆歴史のこばなし
「鎮護国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまり」とありますが「鎮護国家」とは?
鎮護国家とは、仏教には国家を守護・安定させる力があると信じる思想のこと。天平年に災害や疫病(天然痘)が多発したため聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平16年(743年)には東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)の建立の詔を出します。
しかし、飢饉や疫病が蔓延する中で国家を守護するためとはいえ、東大寺の建立なんていう一大国家事業を行うわけですから人々の暮らしはより苦しくなったとも言われています。
行基という僧が東大寺の建立に助力した有名な僧がいます。この当時、仏教というのは「民のため」ものではなく「国のため」のものでした。行基は最初、国に認可されて以内にもかかわらず(この当時は国の認可のない僧は私度僧として罪人扱いだったそうです)全国各地をまわり、人々の救済のために教えを説いたり、用水路を作ったり、病人の看病をしたりしていました。
私度僧ということで国から弾圧を受けますが、あまりに民衆からの人気が高かったため、国はその人気を利用しようと東大寺の建立へ手を貸すように命じます。行基は大勢の人に大仏のありがたさを説き、聖武天皇の東大寺建立に協力したということです。
ちなみに近鉄奈良駅前には噴水の上に行基の像があり、とてもわかりやすい待ち合わせスポットになっています。