上御庭と下御庭二段で構成された旧島津家玉里邸庭園

御所・城・大名の庭

庭園レポート

書院からの鑑賞を意図した「上御庭」と回遊式の「下御庭」で構成されています。その名の通り島津家の27代目当主、斉興によって築庭されました。九州の地域の素材が多用されていて、九州のお庭ならではの景観となっています。
「上御庭」は東側に3つの築山と楕円形の園池を持つ池庭です。池の護岸はすべて石で組まれ、水深は浅く池底には板石が敷き詰められているそうです。中島は亀の姿を象った岩を中心に組まれていて、別名「亀の池」と呼ばれています。石橋もかけられていますが島へ渡ることはできません。池の中に配されている塔?の石造品が独特でおもしろいな~と思いました。写真の通り、晴れた日は池への映り込みも美しく、自然の力で庭の表情があざやかに変わる様子を感じられました。この景色はこの日、この時だけのものなんですよね。


「下御庭」は庭と茶室で構成されています。昭和20年の太平洋戦争によって茶室、長屋門、黒門を残して建造物は焼失し、庭園は灯籠などが破損したものの、大きな被害を免れたそうです。昭和26年には鹿児島市が玉里邸跡地を買収し、昭和34年に鹿児島市立鹿児島女子高等学校がこの地に移転しました。この時「上御庭」は一部を残して校舎及び運動場に改修されましたが、「下御庭」は大きな改変を受けていないことから昭和49年(1974)に「玉里邸茶室付庭園」として名勝に指定されています。

石灯籠も織部灯籠、寄せの山灯籠、装飾が華美でアジアンテイスト漂う石灯籠など変わりダネのものが多く、池周辺にも石造美術がたくさんありましたので石造美術品が好きな方にもおすすめです!



◆見学
午前9:00~午後5:00(毎週火曜は休園日)/ 見学料無料

◆見学所要時間
30分程度

◆アクセス
鹿児島県鹿児島市玉里町27−20


歴史コラム

この庭園は旧島津家の別邸にあったのですが、薩摩といえばやはり島津家。島津家の歴史は古く、鎌倉時代から明治時代初期まで薩摩を領し廃藩置県後、華族の公爵家となりました。
島津家の中でも有名なのは島津義弘かと思います。関ケ原の戦いにおいて、西軍に与していましたが西軍の負けが決まると、なんと敵中を突破して関ケ原から薩摩まで逃げ延びました。関ヶ原の島津の退却には歴史の中でも超有名な伝説的エピソードです。
関ヶ原の西軍に加担したが少ない人数であったこと、当主の義久は九州にいたこと、島津家は朝鮮との独自のパイプなどもあり刺激すると何をするかわからない恐ろしさもあり、家を取り潰すまでには至らなかったという説があります。その266年後に薩長同盟が結ばれ、幕府を倒すきっかけになったのだから皮肉なものですよね。

▲島津義弘

みんな大好き島津4兄弟! 末っ子、家久の「釣り野伏せ」に注目

名門で勇猛果敢、武力も知力も備えた家というイメージが強い島津家。歴史が好きな人であれば島津家の4兄弟が好きな方も多いのではないかなと思います。戦国最強の兄弟ともいわれている、島津義久・義弘・島津歳久・家久。(義久の息子がまったく同名の「家久」なのでややこしいのですが…。)
年若くして亡くなったため他の義久・義弘にくらべて有名ではないですが、末っ子の家久は島津の九州統一の際に多大な功績を残した戦上手だったそうです。「釣り野伏せ」と言われる危険で難しい戦法で、大事な戦局を三度も勝利に導きました。


釣り野伏とは囮部隊が敵へ突込み明らかにやられたと見せかけて、敗走しながら敵に追いかけさせます。目的地までくると山林に隠れてた伏兵たちが四方から飛び出してきて、敵を囲い込み一網打尽にする戦法です。囮部隊がやられてしまえばお終いですし、明らかに演技の煽りだと見破られても成立しないのでそれなりにちゃんと戦いつつ余力を残し、うまく目的地へ誘導して罠にはめないといけないので難しい戦法だったようです。前述の通り、島津家久はこの釣り野伏で三度も勝利しています。

一度目は、耳川の戦い。豊後の大友氏との戦いで兵力さは4万vs3万で島津家の方が1万も兵力が少なかったのですが、釣り野伏を成功させ大友家の主要な武将を打ち取りこの戦いに勝利したことで大友氏と島津氏の勢力が入れ替わります。
二度目は、沖田畷の戦い。龍造寺氏との戦いです。またもや釣り野伏を成功させ、当主である龍造寺隆信を打ち取りました。九州統一に向けてさらに弾みをつけます。
三度目は、豊臣秀吉に派遣されて九州征伐にやってきた長曾我部氏をまたもや釣り野伏で撃退します。嫡子の長宗我部信親を打ち取ったことで長曾我部元親は戦意喪失し、四国へと落ち延びたそう。長曾我部元親にしてみたら豊臣秀吉に四国征伐され、豊臣家の臣下となり九州攻めてこいよと言われ行った先で大事な嫡男を失い…戦国時代とはいえひどすぎますよね。長曾我部元親はこの件で相当老け込んだという逸話もあります。

釣り野伏という戦法一つでこれだけ大きな戦局を勝利に導いたことはすごいとしか言えない…!
しかし秀吉がさらに大群で九州征伐にやってきて、あまりの兵力さゆえに島津家は降伏しました。その直後に、家久は病死で亡くなったといわれています。一説には家久の類まれな才能を恐れた秀吉が家久を暗殺させた説もありますが、真意のほどはもちろん不明です。

それから島津は三兄弟になってしまい、長兄・義久・義弘・歳久と三人力を合わせて島津家を守り、発展させます。兄弟であっても殺し合ったりだまし合う乱世の中で、共に手を取りあう兄弟愛。三兄弟といえば毛利家が有名ですが島津の三兄弟(四兄弟)も素敵なので、題材にした小説なども読んでみてください。天野純己先生の「破天の剣」が痛快でおすすめです!

ikeda

ikeda

日本庭園(主に古庭園)と歴史が好きな管理人が日本庭園の紹介と歴史コラムをと書いています。京都芸術大学大学院環境デザイン領域日本庭園分野を修了。書いた論文を当サイト内でも公開しています。

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