急な斜面を利用した和歌山城・西の丸庭園

和歌山城は豊臣秀吉が紀州征伐(紀州攻めについてはこちらの歴史のこばなしをご覧ください)をし、無事平定した後に秀吉の命で紀伊・和泉を新たに所領とした豊臣秀長が建てたお城です。
その後、豊臣秀長の家老であった桑山重晴が城主となり関ヶ原以後は桑山家は大和に配置替え、新たに紀州藩主となった浅野幸長が和歌山城主となります。福島正則が幕府への反乱分子とみなされ、福島家が改易されると、浅野家は広島への転封することとなりました。
紀州には徳川家康の十男であった頼宜が入城し、徳川御三家のひとつ、紀州徳川家が成立しました。ちなみに徳川御三家とは、尾張徳川家、水戸徳川家、紀州徳川家の三家のことです。
西の丸庭園は徳川頼宜の命により小堀遠州が作庭した説もありますが、西の丸庭園の作庭は上田宗箇だという説もあります。これは関ヶ原後、和歌山城主であった浅野家と縁戚関係もあった上田宗箇が客将として浅野家にいたこと、当時の上田宗箇は引く手あまたの人気の作庭家だったことなどが理由です。

◆庭園レポート
実は庭園内の石組のほとんどは1973年に和歌山市により改修されており、上田宗箇が作庭した当初のおもかげは残っていないそうですが、池泉回遊式の庭園で私が訪れた時は雨上がりの夏の午後でつややかで美しかったです。

急な斜面を利用した豪快な庭で、滝石組を中心にこれでもかというほど、ふんだんに石が立てられています。

内堀を大きな池に見立てるため、水中の岩盤を利用して「柳島」を配置。小さい方の「上の池」には船首をあげたような御舟石があり、神仙世界から訪れる宝船の象徴的な表現といわれています。↓池の中央、大きな石が御舟石。

庭の北側には書院式茶室があり、西の丸庭園は書院式の茶庭ともいえるようです。紅葉が見事なので、紅葉渓庭園とも呼ばれているそうです。


◆入園
9時~17時 12/29~12/31までは休園

◆入園料
無料

◆所要時間
30分ほど

◆アクセス
〒340-8511 和歌山市七番丁23番地 ⇒地図
JR和歌山駅からバス(0系統、25系統)公園前バス停下車
南海和歌山市駅から徒歩約10分


◆歴史のこばなし
前述した通り、和歌山城は関ヶ原後から徳川家が藩主になるまでは、浅野幸長(あさのよしなが)が城主でした。その頃に西の丸庭園も作庭されたのではと推測されます。

父の代から豊臣秀吉に仕えた家系で、豊臣秀吉の死後の豊臣家家臣の武断派(加藤清正・福島正則ら)vs文治派(石田三成・長束正家ら)の内紛の際には、武断派に属していました。そのため、関ヶ原では徳川家康(東軍)側として出兵。

武断派の諸大名は石田三成と対立したから関ヶ原では徳川家康についたものの、豊臣家を裏切って徳川家康に仕えたわけではありません。豊臣秀頼が父・秀吉の天下人の座を継ぐのは無理にしても、豊臣家が安泰に過ごせる道を模索しようとしました。

その最たる例が加藤清正と浅野幸長が奔走した豊臣秀頼と徳川家康の会見、世にいう「二条城会見」です。関ケ原の合戦から10年以上、後水尾天皇の即位の儀のために京へ上洛することになった徳川家康。そこで十数年ぶりに孫娘・千姫の婿でもある豊臣秀頼と会うことを提案。

これは豊臣恩顧の諸大名への「豊臣家を大事にしている」というアピールかつ、もしこの会見を断れば徳川家と豊臣家の不和はより一層のものとなり、難癖つけて豊臣家へ攻め入るスキを探してのことでもありました。

指定した会見場所は二条城。徳川家康の京都での城です。ここへ豊臣秀頼に出向いてくるように伝言をだします。すると、豊臣秀頼の生母で秀吉の側室の淀殿が会見に猛反対。言い分としては「なんでこっちが出向かなきゃならんの?会いたきゃ家康が大阪城にくればいいじゃない?ってか、ノコノコでかけていって大事な秀頼が暗殺されたらどうすんの?」というモノ。

ここで会見が破談になると、家康に付け入るスキを与えかねません。その危険を察知した加藤清正は説得に説得を重ね、万全の警護で傷一つつけさせないという確約をし、歴戦の勇将・加藤清正と浅野幸長の厳重な警護によって徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見は執り行われることとなりました。

画像引用元 KEIHAN
二条城二の丸御殿大広間。徳川家康と豊臣秀頼の会見の場になったほか、大政奉還もここで行われた歴史的な部屋。

即座に徳川家の臣下として扱われるような事態ではありませんが、豊臣家側が折れたことになったこの会見。ここで徳川家康はなにを感じたのでしょうか。依然、強い結束力で結ばれた豊臣家恩顧の大名たちと若くとても良い体格に恵まれた豊臣秀頼の姿。天下人の息子として求心力のある秀頼と固い結束の大名たちとの関係性を危ぶんだのかもしれません

二条城会見が無事終了して、熊本へと帰る船の中で加藤清正は発病、その二か月後に亡くなります。突然の死で辞世の句がないこと、死因が腎虚と言われているもののはっきりしてないことなどから毒による暗殺説もあります。

そしてその2年後、浅野幸長も亡くなります。死因は腎虚によるものといわれていますが、加藤清正と同じ病気で急死したことからさらに徳川家による暗殺説がますます濃厚になります。

さらには二条城会見に参加していた同じく豊臣恩顧の主要な武将、池田輝政も浅野幸長と同じ年に亡くなっています。豊臣家にとって柱とも呼べる武将たちが二条城会見後の二年以内にバタバタと死んでいったことになります。そして浅野幸長・池田輝政の死して1年後に、大坂冬の陣が勃発。
いよいよをもって、徳川家の豊臣家取り潰しの最終仕上げが幕を開けることに。徳川家にとってこのタイミングの良さ、段取りの良さ。これは暗殺説がまことしやかに囁かれるのも仕方ないような…。

浅野幸長には男の子どもがいなかったので、弟である浅野長晟(ながあきら)が家督を継ぎました。大坂夏の陣の後、広島へ転封を命じられた浅野家。そして浅野長長晟は家老であった上田宗箇に作庭を任じます。そうして生まれたのが広島の名園・縮景園です。

ちなみにこの浅野家は有名な忠臣蔵の赤穂浪士「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」を輩出した家でもあります。なかなかドラマティックな人物がいた家のようですね。