作庭家たち

Muso_soseki
夢窓国師(夢窓疎石)
1275年~1351年。日本庭園にもっとも大きな影響を与えたと言われている人物です。伊勢に生まれ、九歳で出家します。当初は天台宗に学びますが、1293年、疎山と石頭という禅寺に行って達磨半身の画像を得るという夢を見て禅宗に目覚め、京都建仁寺で無隠円範に学びます。後醍醐天皇が亡くなると、その冥福を祈って京都天竜寺を開きました。天竜寺方丈前の庭は夢窓疎石の作ですが、嵐山を借景としたこの美しい庭から、すぐれた作庭家でもあったことが窺われます。多くの門弟を育て、その数は一万人以上であったと伝えられています。


220px-Portrait_of_Sesshu
雪舟

1420年~1506年。室町時代の禅僧で水墨画家。涙で描いた鼠の話があるので、画家としてよく知られています。作庭家としても山口県の常栄寺庭園、常徳寺庭園、島根県の萬福寺庭園、医光寺庭園、小川庭園、福岡県の清水寺本坊庭園などを作庭したと言われています。 京都 相国寺で修行し、後に明に渡って画法を学びました。代表作は「山水長巻」「天橋立図」などの水墨山水画で、この山水画が枯山水成立要因の一つとなるなど、庭園デザインに大きな影響を与えました。雪舟自身は中国地方を中心に活動したので、この地方の庭園に雪舟の言い伝えが多く残っています。


thGACFBV43
千利休
室町時代に村田珠光によって確立された侘茶の世界を、桃山時代に、さらに大きく発展させ、それまでの美という考え方に大いなる変革を提唱した大茶人です。茶の文化全般に大活躍し、茶室、露地、茶庭において大変革を成し遂げました。


furu
古田織部

1543年美濃(岐阜県)の生まれ。織田信長、豊臣秀吉らに仕えた戦国武将。茶の湯では千利休の高弟「利休七哲」に数えられ、利休切腹後は豊臣家の筆頭茶人に。大胆でいびつな造形や釉薬(ゆうやく)の色づかいが特徴的な「織部焼」などの制作を指導したとされ、建築や作庭にも影響を与えました。


上田宗箇
丹羽長秀の重臣だった父親の重元を失い、元服後は長秀の小姓となりその後秀吉の直参となって活躍した戦国武将。秀吉の死後は旧主・長秀の後を就いた丹羽永重のもとで関ヶ原合戦の折り西軍に就いたため、敗戦後に所領没収の憂き目に遭いました。姻戚関係にあった秀吉の正室・北政所のとりなしによって命は助けられ、摂津国に流れて出家して宗箇と名乗ります。作庭の腕を買われて蜂須賀家政に招かれて阿波国徳島に移住。徳島城表御殿の庭園「千秋園」の作庭と茶の湯指南を任されました。以降は茶道と造園を趣味として悠々自適に暮らし、浅野家の別邸である縮景園をはじめ、徳川家に請われて名古屋城二の丸庭園の作庭を担当しました。


250px-Kobori_Enshū
小堀遠州

小堀 遠州(政一)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。遠州流(小堀遠州流)茶道の祖。作事奉行とし禁裏や城、茶室の作事を行い今もなお現代の建築家の手本となっています。 茶道にも共通する端正な美学が作庭や建築物にも表現され、現存する大徳寺孤篷庵、金地院などがその代表とされています。仙洞御所、二条城、大坂城、水口城、江戸城西の丸、品川御殿御茶屋など数多くの造営は、作事奉行としての遠州の評価の高さを示しています。


Ogawa-zihe1860
小川治兵衛
1860~1933年。近代日本庭園の先駆者とされる作庭家、庭師。通称、植治(屋号)。植治は、明治初期、京都東山・南禅寺界隈に新たに形成された別荘地において、東山の借景と琵琶湖疏水の引き込みを活かした近代的日本庭園群(南禅寺界隈疏水園池群)を手掛けたことで名高い。明治27年、植治は並河靖之邸の七宝焼き工房に研磨用として引きこんだ疏水を庭園に引く。次いで山縣有朋の求めに応じて、庭園用を主目的として疏水を引きこんだ無鄰菴の作庭を行う。これを草分けとして、植治は自然の景観と躍動的な水の流れをくみこんだ自然主義的な近代日本庭園を数多く手がけて、それらを設計段階から資材調達、施工、維持管理まで総合的に引き受けていきました。


04_18_honda-255x341
本多静六

1866年~1952年。 日本初の林学博士、造園家。日比谷公園、大濠公園など多くの公園をを設計。 明治時代の公園黎明期に、最初の洋風庭園である東京の日比谷公園をなど多くの公園を設計した「公園の父」です。伐採予定だったイチョウを、周囲に無理だといわれても、首にかけても移植するとして、この日比谷公園へ移植した「首かけイチョウ」は、公園の名所になっています。


20111208_shigemori4_v
重森三玲

1896年~1975年。岡山県吉川村出身の作庭家、庭園研究家、書や絵画の他、茶道や華道家としても活躍。 画家を志し、日本美術学校で学ぶが、いけばなに転身。のちに独学で造園の道に進みました。そのためかモルタルなど今までの日本庭園では使われることがない素材を使用し「モダン」な作風と呼ばれました。主な作品は京都東福寺方丈庭園、松尾大社庭園、岡山の友琳の庭、小倉邸庭園、山口の常栄寺本堂前庭園などがあります。そしてもう一つの大きな功績はなんといっても全国の庭園を自費で測量し、図面化したことです。これは焼失した庭を復旧するのしても正確な図面がないことに憂い、弟子たちと尋常ではないスピードで図面を描き、「日本庭園史図鑑」「日本庭園史大系」として後世に残したことです。